バイブル・エッセイ(782)手を離す勇気


手を離す勇気
 使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(使徒1:6-11)
 今日は、「主の昇天」の主日。イエスの昇天の場面は、使徒言行録に「イエスは弟子たちが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」と記されています。エスの体が空に向かって浮き上がり、雲の中に消えていったということでしょう。イエスは、そのようにして天国の「神の右の座」に挙げられたのです。
 先日、104歳のおばあさんが、その生涯を終えて天に召されました。葬儀の日はとてもよいお天気で、真っ青な五月の空に、大きな白い雲がゆっくりと流れていました。宇部火葬場で最後のお見送りをした後、その空を見上げたとき、確かにおばあさんが天国に登ってゆくのが見えたような気がしました。おばあさんの体は、煙となって空に舞い上がり、雲に包まれて天国に入ったのです。主の昇天の場面は、わたしたちがいつの日か天国に上げられるときの、先取りだと言っていいでしょう。
 天に上げていただくために必要なことは何でしょうか。それは、すべてを手放し、神様の手に自分を委ねることだと思います。たとえばわたしたちが、あれも持っていかなければ、これも持っていかなければと宝石や服、ハンドバッグなどをスーツケースに詰め込み、両手に持っていたら、きっと天にうまく上がることができないでしょう。途中でバランスを崩して、落ちてしまうに違いありません。地上で住み慣れた家や、家族、友達などにしがみつくのもよくありません。地上のものにぎゅっとしがみついていたら、神様はわたしたちを天に引き上げることができないのです。天に上げていただきたいのなら、すべてを手放し、神様の手に委ねる必要があります。
 ですが、それはとても勇気のいることでしょう。天国がどんなに素晴らしいところと聞かされても、わたしたちはそこがどんな場所なのか想像もつきません。まるで初めての外国にゆくようなもので、言葉が通じるのか、衣食住はどうなるのか、パスポートなどは必要ないのか、心配の種は尽きないでしょう。いま持っている様々なものにしがみつきたくなるのは、ある意味で当然のことだと思います。では、どうしたら、手放す勇気を持てるのでしょうか。
 こんな話があります。昔、あるサーカス団に、空中ブランコの華麗な業で有名な少年がいました。どんな高いところでも命綱なしで演技する少年に、ある時、新聞記者が「なぜ、あんな高い所でブランコから手を離せるのですか」と尋ねました。すると少年は、「お父さんが必ず受け止めてくれるからね」と答えました。そう、少年の空中ブランコのパートナーは彼のお父さんだったのです。少年は、お父さんが必ず自分を受け止めてくれると信じていたらからこそ、ブランコから手を離すことができたのです。
 わたしたちも、そのような信頼を持ちたいと思います。天国で、神様が必ず受け止めて下さる。その信頼こそ、地上のすべてを手放す勇気の源なのです。天国に上げられる日が、いつやって来るかは誰にもわかりません。いつその日が来ても、喜んで天国に行けるように、すべてを手放す覚悟をいまからしっかり固めておきたいと思います。