バイブル・エッセイ(785)キリストの命を宿す


キリストの命を宿す
 そのとき、イエスユダヤ人たちに言われた。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」(ヨハネ6:51-58)
 御聖体について子どもたちに話すたびごとに、「なんでパンとぶどう酒がキリストの体になるの?」という質問を受けます。なかなか手強い質問です。ただのパンとぶどう酒が、キリストの体に変わるということがどうしても受け入れられないのです。そんなとき、「わたしたちが心を合わせて祈るとき、パンとぶどう酒に聖霊が注がれ、御聖体になるのだ」などと答えるのが一般的でしょう。ですが、もう一つの答え方が可能だと思います。パンとぶどう酒がキリストの体になったと考えるのではなく、キリストがパンとぶどう酒になったと考えるのです。パンとぶどう酒がキリストになるというのは大それたことですが、キリストがパンとぶどう酒なることはそれほど不自然ではないでしょう。なぜなら、キリストはかつて、神でありながら貧しい人間の姿になられたことがあるからです。わたしたちがミサで祈りをささげるたびごとに、聖霊が下り、パンとぶどう酒にキリストの命が宿るのです。御聖体は、キリストの遺体ではありません。キリストの命が宿った、生きた体なのです。御聖体をいただくとき、わたしたちは、キリストの命、永遠の命を宿したキリストの体をいただくのです。
 これは子どもを納得させるためにわたしが考えた説明なので、大人の皆さんには納得してもらえないかもしれません。いずれにせよ、御聖体の神秘を、人間が完全に理解するのは不可能なことです。御聖体をいただくときに大切なのは、頭で理解しようとすることより、御聖体に宿ったキリストの命を感じ、キリストの命を受け止めることでしょう。「結局のところパンとぶどう酒に過ぎないが、まあ神父さんがそう言ってるからわたしも信じよう」というようなことでは、キリストの命をいただくことはできません。頭で考え、思い込んでいるだけではだめなのです。大切なのは、御聖体に宿った、目には見えないキリストの命を心から信じること。キリストの命を心の奥深くでしっかり受け止めることなのです。
「キリストの命」というとちょっとわかりにくいかもしれませんが、神の愛と言い換えればもう少しわかりやすくなるかもしれません。命とは人間を生かす力。キリストからあふれ出す神の愛こそ、まさにわたしたちの命なのです。愛は、頭で考えて理解するものではありません。心で感じ取るものです。相手の深い愛に触れ、心が震えるほどの感動を覚えるとき、わたしたちの心に愛が宿るのです。喜びと感謝、相手を大切に思う気持ちが、わたしたちの心にあふれ出すのです。神の愛に触れるとき、わたしたちの心に命の力が溢れ出します。神の愛に触れて、永遠の命をいただく。それが、御聖体をいただくということなのです。
 キリストの命がわたしたちの内に宿るとき、わたしたちの体はキリストの命を宿した体、すなわちキリストの体になります。マザー・テレサが、貧しい人たちの体を「もう一つの御聖体」と呼んでいましたが、わたしたちの体も、キリストの命を宿した、キリストの体になるのです。わたしたちの心に宿った神の愛が、わたしたちの体を通して、笑顔や優しさ、親切な行いを通して、この世界に広がってゆくよう、心を合わせて祈りたいと思います。