バイブル・エッセイ(759)心にしみ込む言葉


心にしみ込む言葉
 雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ55:10-11)
 天から降った雨や雪が、大地を潤し、たくさんの実りをもたらすように、「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない」と、神様はイザヤを通して語られました。預言者や天使たちを通して語られた神の言葉、ひいては神の言葉そのものであるイエス・キリストは、必ずこの世界に豊かな実りをもたらすということです。神の言葉は、わたしたちの心を愛の恵みですみずみまで潤し、力を与えて、たくさんの実りを生み出してゆくのです。
 言葉が心にしみ込んでくる瞬間というものが、確かにあります。例えば、わたしはこのところ、ある仕事で渡辺和子さんの言葉を読み返しているのですが、資料として渡された言葉の数々を最初に読んだとき、一つひとつの言葉が心にしみわたり、心が癒されてゆくのを感じました。言葉にこめられた、渡辺和子さんのいたわりや思いやりが、心に流れ込んできたと言ってもいいかもしれません。「これはすごい言葉だ」と素直に感動したのです。
 ところが、いざ仕事で、言葉をメッセージの内容ごとに振り分けたり、重複がないか、くどい言い回しがないかなどとチェックしたりし始めると、途端に言葉が心にしみ込んでこなくなりました。文の構造や言葉遣いの癖などが分かるようになり、頭での理解は進んでゆくのですが、最初に感じた「ああ、癒される」という感覚は消えてしまったのです。
 言葉から恵みを受け取るためには、頭で理解するだけでなく、心で素直に受け止めること、言葉にこめられたその人の思いを、心で感じ取ることが必要だと思います。字面を読んで頭で理解するだけでなく、その言葉を書いている人の顔を思い浮かべ、言葉にこめられた思いを感じ取りながら読むとき、言葉はわたしたちの心の隅々にまでしみ込み始めるのです。言葉に込められたその人の愛が、わたしたちの心にしみ込み始めると言ってもいいかもしれません。
 聖書に書かれたイエスの言葉を読むときにも、ただ頭で理解するだけでなく、語りかけるイエスの顔を思い浮かべ、一つひとつの心にこめられたイエスの思い、神様の愛を感じながら読んでゆきたいと思います。このことは、種まきのたとえばなしとも通じるでしょう。このたとえ話に出てくる、たくさんの実りをもたらす「良い土地」とは、やわらかな心で、み言葉をしっかり感じとり、受け止める人のことだと考えたらいいでしょう。頭でしか受け取ることができない人、考えすぎてしまう人は、土の固い道端や、土の浅い岩場のようなもので、み言葉が根を下ろすことができません。やわらかな心で受け止め、「ああ癒される」と感じるその瞬間こそ、み言葉がわたしたちの心に根を下ろした瞬間なのです。イエスの言葉、神様の愛が、わたしたちの心に深くしみこみ、根を下ろして、たくさんの実をつけますように。