バイブル・エッセイ(761)心の平和運動


心の平和運動
 エスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。(マタイ17:1-9)
 イエスの顔が太陽のように輝き、服は光のように白くなって、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から響いたと書かれています。弟子たちと一緒に祈り、受難に向かう使命を引き受けたとき、イエスの上に天からこの声が響いたのです。この声は、以前にも聞こえたことがあります。それは、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受け、救い主としての一歩を踏み出したときです。すべてを神の手に委ねて一歩を踏み出すごとに、神は「これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」と呼びかけてイエスを励ましたのです。すべてを神の手に委ねて一歩を踏み出すとき、わたしたちの心にも、この声が響くでしょう。
 昨日、平和行進に参加するため、広島の平和公園に行ってきました。先週、沖縄戦の悲惨な戦跡を巡ったばかりだったこともあり、今年は特に平和について考えさせられました。なぜ、人間はこんな愚かな戦争を繰り返すのか。二度と戦争を起こさないために、わたしに何ができるのか。世界の大きな流れの中で、こんなちっぽけなわたしに何かできることがあるのか。リニューアルされた原爆資料館を見学しながら、平和行進で街をある来ながら、自分に問いかけざるを得ませんでした。平和行進が終わって橋の上から夕暮れ時の猿猴川を眺めていたとき、ふと思ったのは、「まず自分自身の心から平和を始めなければ」ということでした。
 わたしたちが真っ先に実現できる平和、それは自分自身の心の平和です。先のことをあれこれ心配し、不安や恐れに取り憑かれていては、心に平和はありません。どんなときでもわたしたちを守り、導いて下さる神様の愛を信じ、自分のすべてを神様の手に委ねることことから心の平和が始まります。神様の愛こそが、揺るがぬ平和の土台なのです。すべてを神の手に委ね、御旨のままに一歩を踏み出すとき、わたしたちの心に「あなたはわたしの愛する子」という言葉が響きます。その言葉こそ、わたしたちの心からあらゆる恐れを取り除く、天からの平和宣言だと言っていいでしょう。わたしたちは神の子、神がどんな時でも守り、導いて下さるのです。祈りの中で神の声に耳を傾けながら進んでゆく限り、何も心配することなどありません。
 心の平和を実現するためにもうひとつ大切なのは、怒りや憎しみに打ち勝つことだと思います。自分の思った通りにならない現実、家族や友人、あるいは自分自身に腹を立て、憎しみを燃やしている限り、わたしたちの心に平和はないのです。自分の思った通りにならない現実を、相手を、そして自分自身を寛大な心で受け入れるとき、わたしたちの心に平和が訪れます。
 わたしたちの心の平和は、周りにいる人たちにやすらぎを与え、家族から始まって、友人、社会へと平和の輪が広がっていきます。遠回りに見えるかもしれませんが、それ以外に世界平和を実現する方法はありません。自分の心にさえ平和を実現できなくて、世界の平和を実現できるはずなどないのです。世界に平和を実現するために、まず心の平和運動から始めましょう。