バイブル・エッセイ(763)マリアと共に神を讃える


マリアと共に神を讃える
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」(ルカ1:46-55)
 聖母被昇天の祭日である今日の福音で、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」という言葉で始まる聖母の讃歌が読まれました。聖母マリアは死後、体も心も天に挙げられましたが、生きている間からその心は天国の喜びで満たされていました。謙遜な心で神に感謝し、信頼して自分を委ねる人の心を、神は喜びで満たし、天にまで引き上げてくださるのです。
 あるとき、こんなことがありました。東京の大きな修道院に宿泊したときのことです。廊下を歩いていると向こうから見慣れない神父さんが歩いてきました。お客さんだろうと思って軽く会釈をすると、その神父さんもこちらを見てにっこりほほ笑みかけてくださいました。その笑顔を見た瞬間、わたしの心に不思議なことが起こりました。さまざまなことで思い悩み、疲れていた心が、ふっと急に軽くなったのです。その笑顔を通して天国の光が射しこみ、その光の中で心が癒された。そんな感覚でした。後から、その神父さんはインドから来たとても有名な黙想指導者だと聞きました。その神父さんの心を満たした天国の喜びが、笑顔を通してわたしの心に射しこんだ。そんな出来事だったのではないかと思います。
 わたしたちの身の回りにも、この教会にも、そんな笑顔を浮かべている人はいるでしょう。謙遜な心で神に感謝し、信頼して自分を委ねて生きる人の心を、神は天の喜びで満たしてくださるのです。天国の光が、その人の心を満たしてゆくのです。そのような人は、顔から天国の光を放ち、出会うすべての人の心を癒します。
 逆に、しかめっ面で不機嫌そうな顔の人と出会うと、力が奪われてゆくように感じることがあります。その人の顔から闇が発散されているのではないかと思えるほどです。心が傲慢であるとき、わたしたちの心は神への不平不満で満たされてゆきます。神への信頼がないとき、わたしたちの心は将来への不安や恐れで覆われてゆきます。結果として、心は暗くなり、顔も暗くなってしまうのです。その暗さは、周りにいる人たちにまで広がり、周りの人たちの心まで暗くしてゆきます。マザー・テレサは「喜びは伝染する」と言い、渡辺和子さんは「不機嫌は立派な環境汚染」と言いましたが、喜びも不機嫌も、表情やしぐさ、言葉遣いを通して周りの人たちに広がってゆくのです。
 聖母マリアと共に神に感謝し、神に自分を委ねて喜びの中に生きるとき、わたしたちの周りに天国の光が広がってゆきます。天国に挙げられるのを待たなくても、この地上に天国を実現することができるのです。それが、わたしたちの使命だと言っていいでしょう。マリアの謙遜、マリアの信頼に倣うことができるよう、心を合わせて祈りましょう。