バイブル・エッセイ(767)自分を棚に上げる


自分を棚に上げる
 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(マタイ11:21-35)
 自分が借金を帳消しにしてもらったことをすっかり棚に上げて、同僚の借金を厳しく取り立てた家来の話、いわゆる「恩知らずな家来」のたとえ話が読まれました。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言う王の言葉は、そのままわたしたちに向けられたものと考えてよいでしょう。 この恩知らずの家来と同じように、誰かを厳しく非難するとき、わたしたちは自分のことをすっかり棚に上げていることが多いようです。気に入らない相手を責めるために、わたしたちは自分のことを棚に上げるためのいくつもの方法を持っているのです。
 一番よくあるのは、単純に自分自身の落ち度に気づいていないということでしょう。「あの人は、自分のことしか考えていない」などと人の悪口を言うとき、わたしたちはまるで自分が正義と博愛の人物であるかのように思い込んでいます。ですが、実際に自分の行動をよく振り返ってみれば、自分も勝手な行動で周りの人を傷つけたことがたくさんあったことに気づくのです。自分のことをよく知れば知るほど、自分の弱さや欠点に気づけば気づくほど、人のことは責められなくなるものだと思います。自分のことをよく知れば知るほど謙遜になる。傲慢に人を裁くなら、その人はまだ自分のことをよく知らない、と言ってもいいかもしれません。
 自分がやりたいと思いながら我慢していること、やりたくてもできないことを相手がしているからこそ、腹が立って仕方がないという場合もあります。たとえば、「自分は有名人になりたい。もっと高く評価されるべき人間だ」と思っている人は、他の人が成功し、有名になることがゆるせません。腹立ちまぎれに、「あの人は目立ちたがり屋だ。あいつにはあんな欠点もあるしこんな欠点もある」と相手を責め始めるのです。ですが、それは単に心の中にある思いを実行したかどうかの違いに過ぎません。そのように誰かを責めるとき、わたしたちは自分の心の中にある思いをすっかり棚に上げているのです。
 自分がやっているのを分かっていて、あえて他人を非難する場合もあります。「あの人でもあんなことをやっているんだから、自分がするのも仕方のないことだ」と自分自身を正当化するために人を非難するのです。相手を下げて自分と同じ高さにすることで自分を正当化すると言ってもいいかもしれません。これも、自分を棚に上げるための一つの巧妙な方法だと言っていいでしょうる
 自分の行動や心の動きをよく見れば、他人を厳しく裁くことはできなくなります。むしろ、自分と同じような間違いをしている相手に同情し、いたわりの言葉をかけられるようになるのです。裁く人ではなく、相手を思いやりいたわれる人になれるよう祈りましょう。