バイブル・エッセイ(776)愛は小さなことの中に


愛は小さなことの中に
「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」(マタイ25:14-15、19-21)
 預けた財産を増やしてくれたしもべに、主人は「お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」と言ってさらに多くの財産を委ねました。主人への忠実さは、小さなことへの誠実さによって証される。主人への愛の深さは、小さなことに取り組むその人の態度の中に現れるということでしょう。
 わたしたちの普段の生活の中でもそれは言えるでしょう。たとえば、最近お母さんが掃除や料理を手抜きするようになってきた。カラオケやテニスに夢中で、家の中の片づけができていない。そのようなことになると、家族の心にお母さんの愛への疑問が生まれます。もしろん息抜きも大切ですが、行き過ぎると「お母さんは、家族より自分が遊ぶことの方が大事なのではないか」という印象を与えてしまうのです。逆に、いつも家の中がきちんと片付いている。どんなに忙しくても、家族のことを考え、手間をかけた料理を準備してくれる。そのようなことが重なると、家族の心に「お母さんは、わたしたちのことを本当に大切にしてくれている。わたしたちちは愛されている」という安心感が生まれてきます。お母さんの家族への愛は、一つひとつの小さなことに込められた愛の深さによって証されるのです。
 お父さんも同じです。ふだん家族のために何もできないからといってときどき大きなプレゼントをしたり、旅行に連れて行ったりするのもいいのですが、お父さんの愛情は、むしろ日々の生活の中での小さな思いやりや気遣いによってこそ証されるのです。出来る限り家に早く帰るよう心がける、食事の後片付けを手伝ったり、感謝のことばをきちんと伝えたりする、そのような態度の中にこそ、お父さんの愛の深さが現れるのです。
 神様への愛も、それと同じです。毎日、朝晩に祈りを唱え、感謝のうちに日々を過ごしているか。食前食後に、きちんと神様に感謝の祈りを捧げているか。毎週のミサに、出来る限り出席しようとしているか。そのような日々の小さなことの積み重ねの中にこそ、神様への愛があるのです。ときどき教会に大きな献金をしたり、聖地に巡礼したりしても、普段の生活の中で祈りをなおざりにしているならば、その人が神様を本当に愛しているかどうか疑問です。神様への愛は、日々の小さな事への誠実さの中にこそ現れるのです。
 小さな財産への忠実さの中にしもべの愛の深さを感じ取った主人は、しもべにさらに多くの財産を管理させることにしました。このしもべが、5タラントンを任せられたからといって思い上がり、仕事をさぼるような人だったら、もっと大きな恵みを与えられることはなかったでしょう。それは、本人のためにもならないからです。5タラントンの恵みを感謝して受け取り、正しく用いられる人だったからこそ、神様はさらに大きな恵みを約束してくださったのです。
 神様への愛、家族や隣人への愛は、小さなことの中でこそ証されます。「忠実なよいしもべ」、忠実なよい母、よい父、友だち、仲間になってゆくことができるように、日々の小さなことに誠実に取り組んでゆきましょう。