バイブル・エッセイ(777)助けを求める声


助けを求める声
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」(マタイ25:31-40)
 苦しんでいるイエスを助けた覚えがないという人たちに、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」とイエスは言います。苦しんでいる人たちの中にイエスがいる。苦しんでいる人たちを助けるのは、イエスを助けるのと同じだというのです。
 わたしたちの心はイエスの住まい。すべての人の心にイエスが宿っているとわたしたちは知っています。どんな人の心にも、一番奥深いところにはイエスが宿っているのです。それは、きっとどんな人の心にも宿っている優しさ、善良さ、愛のぬくもりといったもののことでしょう。わたしたちは、苦しんでいる人を見たときに、放ってことが出来ない。相手のために何かせずにはいられないと感じます。その思いこそが神の愛であり、その中にイエスがおられるのです。わたしたちの心は生まれながらに神の愛を宿し、イエスを宿しているのです。生まれたときから心の奥底に宿っている神の愛こそが、「神の子」であるわたしたちの心の本体だとさえ言っていいかもしれません。
 相手が「助けてくれ」と叫んでいるとき、その叫びはイエスが発した叫びです。相手の中におられるイエスが、わたしたちの愛を求めて叫んでいるのです。相手の心の中だけではありません。相手が助けを求めて叫んでいるとき、わたしたちの心の中でもイエスは、「助けてくれ」と叫んでいます。わたしたちの中におられるイエスは、相手を助けたくてしかたがないのです。相手の中で叫ぶイエスの声に答えることは、わたしたち自身の中で助けを求めているイエスの声に答えるということでもあるのです。わたしたちが苦しんでいる人に助けの手を差し伸べるとき、救われるのは相手だけではありません。わたしたち自身も救われるのです。
 イエスの声に答えるとき、わたしたちの心は喜びで満たされます。傷ついていた神の愛が癒され、「神の子」としての本来の姿を取り戻すことが出来たからです。苦しんでいる人を助けることによって、わたしたちは自分自身の心を助け、自分自身の本来の姿を取り戻すのです。苦しんでいる人たちを救うことによって、わたしたちは自分自身を救うと言ってもいいでしょう。
 逆に、「助けてくれ」と叫ぶ人たちの声、愛を求めるイエスの声を無視するのは、わたしたち自身の中で「助けてくれ」と叫ぶイエスの声を無視するのと同じことです。人々の苦しみの声に耳を塞ぐことができたとしても、わたしたちの心の中でイエスは「助けてくれ」と叫び続けているのです。その声にさえ耳を塞ぐなら、わたしたちは人間にとって一番大切なこと、「神の子」の証である神の愛を見失ってしまうでしょう。助けを求める人たちに心を閉ざすとき、わたしたちは神の愛に心を閉ざすのです。助けを求める人たちを見捨てるとき、わたしたちは自分自身を見捨てると言ってもいいでしょう。
 最後の審判は、決して神がわたしたちに下す審判ではありません。わたしたち自身の態度が、わたしたち自身の裁きになるのです。日々の生活の中で、イエスの呼び声にしっかり応えてゆきましょう。