バイブル・エッセイ(781)幼子の心


幼子の心
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:1-14)
 クリスマス、おめでとうございます。ふかふかの藁が敷かれた飼い葉桶に眠る幼子イエス、この幼子の中にこそ、クリスマスの喜びが凝縮されていると言っていいでしょう。今年のクリスマスメッセージの中で、教皇様は次のようおっしゃいました。
「もし本当にクリスマスを祝いたいなら、か弱く飾り気のない、生まれたばかりの赤ん坊を思い描いてみてください。そこに神がおられるのです。」
 飼い葉桶に寝かされてすやすやと眠る、か弱く飾り気のない赤ん坊の中にこそ、神がおられるというのです。その姿を、心の中で思い描いてみましょう。赤ん坊は、マリアとヨセフの愛に包まれ、ふかふかの藁の中ですやすやと寝息を立てています。自分が愛されていることを少しも疑わない、安らかな寝顔です。ここに、確かに神がおられます。神様からの愛、人々からの愛を少しも疑わずに受け止めるとき、わたしたちの心を満たす喜びと平和。その中に、確かに神がおられるのです。
 天使ガブリエルは、聖母マリアに「恐れるな」と語りかけました。羊飼いに現れた天使たちも「恐れるな」と語りかけています。恐れずに神様のみ旨を受け入れること。神の愛を疑わず、心の底から信じること。その中にこそ、わたしたちの救いがあるのです。飼い葉おけに眠る幼子の姿は、恐れのない人間の姿、神の愛にすべてを委ねた人間の姿の極みであり、まさにその中にこそわたしたちの救いがあると言っていいでしょう。
 イエス・キリストに限らず、幼い子どもたちの心には、愛されていることへの揺るがぬ信頼があります。幼い子どもたちの心はいつも、愛されているという確信が生み出す喜びと安らぎで満たされているのです。幼稚園で子どもたちと接する中で、わたしは日々そのことを感じています。たとえば子どもたちは、自分が愛されていることを確信しているので、仲間を恐れ、仲間と競い合うことがありません。むしろ、相手のよさを素直に認め、「〜ちゃんはこれができるんだよ。すごいねぇ」と、まるで自分のことに喜ぶことができるのです。聞いていて、「この子は、なんて人がいいのだろう」と、思わず感心してしまうくらいです。幼い子どもたちは、愛されるために人と争う必要などないと知っているのです。
 大人になるにしたがって、わたしたちは幼子の心を失っていきます。親からの愛を疑い、神様からの愛を疑うようになってゆくのです。親や神様の愛を試すために反抗したり、友だちと争ったりするようになってゆくのです。やがて、愛されないことへの恐れが、怒りや苛立ち、不安となってわたしたちの心を闇で覆ってゆきます。わたしたちは、生まれたとき、誰もが心の中に天国を持っています。ですが、大人になるにしたがって、わたしたちはそれを少しずつ失ってゆくのです。
 神様からの愛、人々からの愛を信じて疑わず、喜びと安らぎに満たされて生きる天使のような日々が、わたしたちにもありました。そのことを思い出したいと思います。マザー・テレサは、イザヤ書の中にある「わたしはあなたをわたしの手のひらに刻んだ」という言葉が大好きで、神様の手の中に眠る赤ん坊の絵をみんなに配っていました。赤ん坊のように、神様の愛に信頼して生きなさいということです。このクリスマスに、わたしたち一人ひとりの心に、飼い葉おけに眠る幼子の信頼が宿るよう祈ります。