バイブル・エッセイ(784)神様からの預かりもの


神様からの預かりもの
モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。(ルカ2:22、39-40)
 律法の定めに従い、ヨセフとマリアは「その子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った」と書かれています。神様に献げるといっても、そのまま神殿に置いてくるわけではありません。また連れて帰って来て自分たちが育てるのだけれど、いったん献げた以上、子どもはもはや自分たちのものではなく神様のものになります。両親は、子どもを神様からの預かりものとして連れ帰り、大切に育てるのです。
 これは、現代の親子にとっても大切な心構えでしょう。親は子どもに、子どもは親に、つい自分の思いを押し付けてしまいがちだからです。親子のあいだには、「わたしの子どもなのに、なぜこんなこともできないんだ」とか、「親なのに、なぜこんなこともしてくれないの」といった喧嘩が起こりがちです。子どもの頃、「親はわたしの気持ちをわかってくれない」と親を責めていた人が、親になると、「子どもがまったくわたしの言うことを聞かない」と言って子どもを責め始めることさえあります。「子どもだから」「親だから」と互いに大きな期待を押し付け合い、期待通りにならない相手に腹を立てる。それがほとんどの親子喧嘩のもとなのではないかと思います。
 子どもは神様からの預かりものだということさえ忘れなければ、子どもに自分の思いを押し付けることはなくなるでしょう。神様からの預かりものである子どもを、神様のみ旨のままに育てる。それが親に与えられた使命なのです。「わたしは人生経験を積んでいる。わわたしの思った通りに生きるのが子どもにとっても一番いいことだ」というような思い込みを捨て、謙遜な心で「神様、この子どもをどう育てたらいいのでしょう」と問いかけることが大切です。神様は、それぞれの子どもに、わたしたちの想像をはるかに越えるような救いの計画を準備しておられるからです。「わたしの子どもなのに」ではなく、「わたしの子どもなんだから、このくらいできれば上出来。神様は、この子のためにどんな計画を準備しておられるのだろう」というくらいの気持ちで子どもを見られれば、きっと気持ちが楽になるでしょう。
 子どもも、自分たちの本当の親は神様だということを忘れず、親に期待しすぎないことが大切だと思います。人間に過ぎない親に、完璧を期待することなどできないのです。親も、神様の前で不完全な存在にすぎないということに気づき、「神様、どうかこの親を救ってあげてください」と祈るとき、親子の間に和解が生まれるでしょう。
 互いを神様の手に委ねるとき、互いへの大きすぎる期待を捨て、互いをあるがままに受け入れあうとき、家族に神様の愛が宿ります。聖家族の模範に倣い、神様が預けてくださったかけがえのない子ども、神様が与えてくださったかけがえのない親として互いを受け入れあう家庭を実現できるよう祈りましょう。