バイブル・エッセイ(831)待ち望む喜び

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待ち望む喜び

(そのとき、群衆はヨハネに、)「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。(ルカ3:10-18)

 洗礼者ヨハネが、群衆や徴税人だけでなく、ローマ兵にさえアドバイスを与えるという興味深い場面が読まれました。ですが、それほど人々から信頼されているにもかかわらず、ヨハネはやがてやって来る方、すなわちイエスの「履物のひもを解く値打ちもない」と言い、自分は水で洗礼を授けるが「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言います。水は罪の清めの象徴ですから、ヨハネには、人々を悔い改めさせ、心を清くする役割が与えられている。それに対してイエスが告げる神の愛は、わたしたちの心の汚れを清めるだけでなく、喜びで燃え上がらせるということでしょう。古い自分は焼き尽くされ、燃え上がる喜びの中で神の子として生まれ変わる。それが、イエスの洗礼なのです。
 イエスとの出会い、神様の愛との出会いは、ちょっと想像しただけでもわくわくするような、本当に大きな喜びの出来事です。もう間もなくわたしたちはイエスの誕生の場面に立ち会い、その喜びを共に味わうのです。いまわたしたちの心の中にある、この「わくわく」する感じ。これも、イエスがもたらす喜びの一部と言っていいかもしれません。確実にやって来る大きな喜びのときを、胸をわくわくさせて待つことは、すでに喜びの一部なのです。
 子どもの頃、キリスト教徒でなかったわたしの家でも、クリスマスは喜びの日でした。クリスマスの日には、お父さんが、お父さんの同級生がやっている近所のおもちゃ屋さんに連れて行っておもちゃを買ってくれるのです。その日が来るのを指折り数え、わくわくしていたことを、いまでもはっきり覚えています。子どもの頃には、それが本当に大きな喜びだったのです。
 わたしたちが待ちわびているクリスマスの喜びは、おもちゃを買ってもらうというようなことよりも、はるかに大きな喜びです。イエスはわたしたちの心を愛で満たし、「おもちゃやご馳走くらいしか、人生の楽しみがない」というような状況から救い出してくださるのです。社会での競争や人間関係のトラブル、病気、事故などで苦しんでいるわたしたちに、イエスは「たとえ何が起こっても、あなたは大切な神様の子ども。かけがえのない命だ」と語りかけてくださいます。イエスは、このみじめなわたしたちの人生に意味を与え、わたしたちの人生を喜びで満たしてくださるのです。
 クリスマスは、わたしたちの人生を変えるほどの、大きな喜びが生まれる日と言っていいでしょう。「おもちゃ」を買ったり、御馳走を食べたりすることで生まれる喜びは、すぐに消えてしまいますが、この喜びは決して消えることがありません。どんなときでも、わたしたちの心を喜びで燃え上がらせ、人生に希望を与えてくれるのです。この大きな喜びが生まれる日を、わくわくしながら待ちたいと思います。クリスマスの 喜びは、もう始まっているのです。