初めに愛があった
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1)
「初めに言(ことば)があった」という、ヨハネ福音書の冒頭の箇所が読まれました。ちょっと難しい表現をしていますが、今日読まれた箇所には、そもそも人間とは何か。人間はどうすれば救われるのか、幸せになれるのかの答えが要約されているように思います。もっと簡単な言葉に言い換えてみましょう。
初めにあった言、それは愛と読み換えてもいいでしょう。神の言は愛であり、愛は神そのものなのです。「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」ということはつまり、「すべてのものは愛から生まれてきた。愛されずに生まれてきたものなど、何一つない」ということです。わたしたち一人ひとりも、例外ではありません。わたしたちは、神様の満ちあふれる愛の中から生まれてきた、神様の子どもなのです。この愛こそが、わたしたちを生かす力、わたしたちの命だと言ってもいいでしょう。「わたしは神様から愛された、かけがえのない存在。わたしの人生には意味がある」という確信こそが、わたしたちが生きてゆくための力、わたしたちの命なのです。「言の内に命があった」とはそういうことだと思います。
愛から生まれてきた人間は、愛を生きること、互いに愛し合うことによってのみ幸せになることができます。ところが、その当たり前の事実を覆い隠すものがあります。「人のことまでかまっていられない。自分さえよければいい」という我儘や、「あんな人は絶対にゆるせない。いなくなってしまえばいい」というような憎しみなどが、わたしたちを愛から遠ざけてしまうのです。わたししたちを愛から遠ざけるもの、それを闇と呼んでいいでしょう。互いに競い合い、憎み合う闇の中で、わたしたちは自分の本来の姿を少しずつ忘れてゆきます。自分が神様の愛の中から生まれてきたかけがえのない命、かぎりなく尊い命であることを忘れ、互いに愛し合うことをやめてしまうのです。
そんなわたしたちを見るに見かねて、神様ご自身が、愛そのものが人間になってこの世界に現れました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とはそういうことです。神の愛そのものであるイエス様は、わたしたち一人ひとりが神様の愛の中から生まれてきたかけがえのない存在であること。競い合う必要などまったくないということ。互いに愛し合うことによってのみ、人間は幸せになれるのだということを思い出させるために、この世界にやって来られたのです。
イエスと出会い、「あなたはかけがえのない神様の子どもだ」という真実を告げられた人たちの顔は、喜びであふれました。喜びにあふれた神様の子どもたちの間に、愛の輪がどんどん広がってゆきました。それこそ、「肉となった言」の栄光です。喜びと力に満ちた人間たちこそ、神様の栄光なのです。神様の栄光を、ここから始めて全世界に広げてゆけるよう、心を合わせて祈りましょう。