バイブル・エッセイ(787)権威ある言葉


権威ある言葉
エスは、安息日に(カファルナウムの)会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。
 イエスは、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」と書かれています。悪霊でさえ逆らうことができないイエスの権威とは、一体どんなものなのでしょう。イエスの言葉は、なぜそれほどの権威を持ったのでしょうか。
「言葉に力がある」と感じることが、最近ありました。ある司教様のお話を聞いていたときのことです。長崎の五島列島で生まれ育ち、中学生のときに神学生になる決意をしたというその司教様のお話は、聞く人の心をひきつけずにおきません。相手を深く納得させる言葉が次々と飛び出してきて、1時間聞いても、2時間聞いても飽きるということがないのです。まさに、力のある言葉、権威ある言葉と言っていいでしょう。
 その権威は、いったいどこから生まれてくるのでしょう。それは、私利私欲のまったくない謙遜なお人柄によるのではないかと思われます。端々に傲慢や利己心などが見え隠れするような言葉は、わたしたちの心にまっすぐ入って来ません。「何だか鼻につくな」という気持ちが出てきて、うまく心にしみ込まないのです。わたしたちの心にまっすぐ届くのは、ただ聞く人たちの役に立ちたい、神様の道具としてできる限りの奉仕をしたいという純粋な思いから発せられた言葉だけなのです。
 言葉に迷いがないということも、力の秘密ではないかと思います。語っていることのすべてが、子ども時代から現在に至るまでの自分の体験に根差しているからだろうと思います。ただ本から学んだだけの言葉、頭で考えただけの言葉には、あまり力がありません。学んだことを自分の人生経験の中でしっかり確認し、自分自身の言葉にしたとき、言葉は初めて力を持つのです。
 悪魔は、相手の心の弱みをすぐに見つけ、そこから相手を誘惑して崩してゆきますから、心に弱みがないことも大切でしょう。偉そうなことを言いながら、自分の言葉と行いの間に矛盾があると、悪魔はそれを目ざとく見つけます。人間の目は欺けても、悪魔の目を欺くことはできないのです。「あんなことをしておきながら、どうして偉そうな口がきけるんだ」という悪魔の言葉は、とても強力です。この戦術に打ち勝つためには、平素から言葉通りの生活をする以外にありません。
 言葉の力は、その人の生き方そのものから生まれると言っていいでしょう。力強い言葉で福音を告げ知らせることができるように、①私利私欲のない純粋な思いを磨くこと。②学んだ言葉を、日々の生活の中で確認して自分の言葉にすること、③言葉と行いを一致させることを心掛けたいと思います。