バイブル・エッセイ(788)ゆるしの力


ゆるしの力
重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。(マルコ1:40-45)
 重い皮膚病を患った人を、イエスが深く憐れんで癒す場面が読まれました。この箇所で、とても印象に残るのは、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」という患者さんの言葉です。そんな重い病気にかかったら、「こんな病気が癒されるはずはない」と思って諦めてしまうのが普通でしょう。ですが、この患者さんは、「神様にできないことなどない。こんなにひどい病気でも、必ず治せるはずだ」と確信していたのです。この確信、この人の信仰が、この人を救ったと言っていいでしょう。
 わたしたちにも、このような信仰が求められています。例えばわたしたちは、自分自身がこれまで犯してきた罪について、「こんなにひどい罪が、ゆるされるはずがない」と思い込んでしまっている場合があります。「告解もして、ほとんどの罪はゆるされたはずだけれども、さすがにあの罪だけはなかなかゆるされないだろう」というような罪が、一つや二つ心に引っかかっているということがあるのです。そのような罪は、なかなか消えることがありません。毎年、毎年、何十回も同じ罪を告白しているけれど、また心に痛みが湧き上がって来て、告解室に向かうというようなことが、ときどき起こるのです。中には、「こんなひどい罪がゆるされるはずはない」と決め込んで、初めからゆるしを願わない人、途中でゆるしを諦めてしまう人もいます。
 問題は、本人が「こんなひどい罪がゆるされるはずはない」と思い込んでしまっていることでしょう。神様がゆるし、神父がゆるしの秘跡を行っても、本人がゆるしを拒んでしまえば、ゆるされることはできません。「ゆるされる」とは、神様の愛を本気で信じ、「自分はゆるされた」と心の底から信じることに他ならないのです。ゆるしは、「愛し」「愛される」ことによって完成する愛と同じで、「ゆるす」「ゆるされる」が一つになるとき成立する、双方向の行為なのです。
 では、どうしたら「ゆるされる」ことができるのでしょう。そのためには、神様のゆるしの力を信じ、罪の力から抜け出すことができるよう祈り続ける以外にないと思います。神様は、こんなに弱いわたしたちでさえ、新しい人間として生まれ変わらせる力を持っておられます。それを信じないこと自体が、罪の始まりだと言っていいかもしれません。「こんな自分が、ゆるされるはずがない」という考えが心に浮かんできたなら、すぐさま神様にお詫びしましょう。「もう二度と、同じ罪を犯しません。どうぞおゆるしください」と心の底から願うなら、神様はどんな罪でも必ずゆるしてくださいます。神様は、そんなわたしたちを「深く憐れんで、手を差し伸べて」くださるのです。神のゆるしの力、愛の力を信じ、絶えずゆるしを願い続ける謙遜な心で生きられるよう願いましょう。