バイブル・エッセイ(790)弱さを知って強くなる


弱さを知って強くなる
“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。ヨハネが捕らえられた後、イエスガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。(マルコ1:12-15)
 イエスの荒れ野での誘惑が、マルコ福音書では「“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」と簡潔に要約されています。どんな誘惑を受けたかということには触れず、イエスが誘惑を受けたという事実だけを際立たせている記述です。なぜイエスは、宣教の初めに誘惑を受ける必要があったのでしょうか。
 イエズス会でも、修道生活の初めに厳しい修練が課されます。修道院に退き、世俗の楽しみを絶って、ひたすら祈りと勉強、労働の日々を送るのです。そのような中で、自分の人間としての弱さに直面しなければならない場面が、次々と現れてきます。たとえば、こんなことがありました。ミンダナオ島で実習していたときのことです。ジャングルの中を徒歩で旅しているとき、わたしたちはある村でブヨの大群に襲われました。向こうのブヨは、日本のブヨよりずっと凶暴で、髪の毛の間に潜り込んだり、鼻の穴や耳の穴、目の周りなどにどんどん入り込んだりしてきて、皮膚に噛みつきます。同行していた現地の若者たちでさえ閉口するほどの猛攻撃です。そのとき、わたしのリュックには、一つだけ虫よけ薬が入っていました。同行していた人たち全員に分けたら、あっという間になくなってしまうくらいの分量でした。わたしはちょっと迷いましたが、「この人たちは現地人だから大丈夫」と自分に言い聞かせて、こっそり自分ひとりで虫よけ薬を使ったのでした。わたしにとってこの体験は、自分の弱さを痛感させられた出来事でした。神の愛とか奉仕とか言いながら、結局わたしは、いざとなると自分の身を守ることしか考えられない弱い人間なのです。
 こんな弱い人間が、人々に神の愛を伝えるにはどうしたらいいかと考えると、それはもう神に祈るしかないということになります。自分の弱さを素直に認めて、「神様、どうぞこの弱くてみじめなわたしをお救い下さい」と祈るのです。そのように祈るたびごとに、神様は、わたしたちの弱さをゆるし、わたしたちに立ち上がる力を与えてくださいます。こうして、わたしたちは神様との信頼関係を深め、神様の愛の愛の上にしっかりとした土台を築いてゆくのです。「自分は信心深くて強い人間だ。人を裏切るような奴は卑劣だ」と人を見下すような強さではなく、人間としての自分の弱さをよく知った上で、周りの人たちをいたわれる本当の強さを身に着けてゆくのです。それこそが、イエスの強さだと言っていいでしょう。
 四旬節の節制は、気晴らしを遠ざけ、自分を追い込むことで自分の弱さに直面するための期間。自分の弱さを知って、謙遜な心で神に助けを求めるための期間。そうすることによって、神の愛の豊かさを知り、神の愛にしっかりと人生の土台を置くための期間だと考えてよいでしょう。この四旬節に、わたしたちが自分の弱さを知り、神様の愛の中で、前よりもっと強くなれるように祈りましょう。