バイブル・エッセイ(791)内側からの光


内側からの光
 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。(マルコ9:2-8)
 イエスのご変容の場面ですが、マルコ福音書は、イエスの姿ではなく、イエスの服がどのように変わったかを書いています。イエスの服が「真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」というのです。おそらくイエスの全身が光を放ち、その光が服を内側から照らし出したということなのでしょう。そのとき、イエスの服は、人間が作ったどんな服よりも白く、美しく輝く服になったのです。
 先日、ある集まりに、長年、海外への医療援助の仕事に携わっておられるAさんとわたしがゲストとして招かれました。たくさんの方々の前でお話しするということで、わたしはスーツを着込み、靴も磨いてできるだけいい格好をして出かけました。わたしの話に続いて登場したAさんは、わたしとは逆に、それほどフォーマルとは言えない服装でした。ところが、実際には、聖なる光に包まれて輝いて見えたのはAさんの方だったのです。長年にわたって地道な支援活動に取り組み、全国各地を回って祈りの指導にあたる中で磨き上げられた人格の輝きと言ってもいいかもしれません。大切なのは、服装よりもその人の生き方だということを、わたしは改めて痛感しました。 
 ご変容の場面でイエスの全身が輝いたのは、まさにイエスが貧しい人たち、苦しんでいる人たちのために自分の命を捧げる決意をした瞬間だったように思います。弟子たちと共に高い山に登って祈り、やがて訪れる受難を受け入れたとき、イエスの全身は光を放ち、服は真っ白に輝き始めたのです。イエスの心に宿った神の愛が、イエスの全身を輝かせ、その光が服をも輝かせたと考えてよいでしょう。その美しさは、地上のどんな職人が作り出した服もかなわないほどのものでした。地上のどんなに美し服も、きらびやかな地位や名誉、家柄も、天国から射しこむ神の愛の光に照らされた人の輝きにはまったく及ばないのです。 
 どんなに華美な服を着ていたとしても、そのことによって自分は特別な人間だと思い込み、貧しい国で暮らしている人たちのことや、社会の片隅に追いやられて苦しんでいる人たちのことを忘れてしまうなら、服の美しさはきっと台無しになってしまうでしょう。生き方そのものが輝いていない限り、どんなに美しい服を着ていたとしても、服の本当の美しさを引き出すことはできないのです。 
 地上のどんな栄光も、美しい服も、わたしたちを輝かせることはできません。その人の心に宿った神の愛だけが、わたしたちを輝かせることができるのです。外見を気にする前に、貧しい人たち、苦しんでいる人たちのために祈ることから始めたいと思います。