バイブル・エッセイ(795)神への忠誠心


神への忠誠心
 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「本当に、この人は神の子だった。」(マルコ15:33-39)
 イエスが息を引き取るのを見て、ローマの百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と言いました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」とイエスが言うのも聞いていたはずですが、それにもかかわらず「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです。なぜ、百人隊長は、そんなことを言ったのでしょう。
 もしかすると、兵士という職業が関係しているのかもしれません。百人隊長という以上、この人はローマ皇帝のため、ローマ帝国の栄光のために数々の戦いを生き抜いてきた人なのでしょう。そのような体験の中で、どれほどの困難があったとしても最後まで自分に与えられた使命に忠実である兵士。侮辱され、傷つけられ、自分の命を失ったとしても、ローマ帝国のために忠義を貫く兵士こそが本物のローマ兵であると、この人は考えていたのではないかと思います。イエスの姿を見たとき、百人隊長はその姿にきっと兵士の姿を重ねたのでしょう。侮辱され、傷つけられ、自分の命を差し出しても、神から与えられた使命を最後まで果たしぬいたイエスこそ、本物の神の兵士、神の子だと思ったからこそ、深い実感を込めて「この人は、本当に神の子だった」と言ったのだと思います。
「我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、何のつまずきにもなりません。なぜなら、このようなことを言いながらも、イエスは十字架から降りることがなかったからです。神から見捨てられたと感じるほどの苦しみを味わいながら、それでも十字架という戦場から逃げ出さなかったこと。神から与えられた使命を、最後まで果たしぬいたことこそ、イエスが「神の子」であることの何よりの証なのです。
 堅信式のとき、「あなたは神の兵士となった」という言葉を贈る伝統がありますが、わたしたち一人ひとりが神から人類の救いという大いなる使命のために、それぞれの戦いの場に派遣された兵士であることを忘れないようにしたいと思います。自分自身の心の中に入り込もうとする悪、人々の心の中に入り込もうとする悪と戦い、わたしたちの心の中に、そしてこの地上に神の支配、愛の支配を実現するのがわたしたちの使命なのです。それぞれが生きている生活の場、家庭や学校、老人ホームなどこそが、わたしたちの戦場だと言っていいでしょう。
 神の兵士としてのわたしたちにとって、神への愛は、神への忠誠心と言い換えてもいいかもしれません。罪深いわたしたちを闇の中から救い出し、神の子としての誇りと使命を取り戻してくださった神のため、わたしたち愛し、全人類の救いを願う神のためなら、自分の命さえ差し出しても惜しくない。そのような忠誠心こそが、最も深い愛なのです。エスに倣って、それぞれの場で自分の使命を果たしぬくことができるよう、そのための力を神に願いましょう。