バイブル・エッセイ(797)苦しみのしもべ


苦しみのしもべ
 見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように、彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない。それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(イザヤ52:13-53:5)
「彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであった」とイザヤ書は語っています。いわゆる「苦しみのしもべ」の箇所ですが、ここに出てくる「彼」こそイエス・キリストだとわたしたちは考えています。エスは十字架上で、私たちの病、わたしたちの痛みを背負って死んでゆかれたのです。
 現代社会に巣くった病、その中で生きるわたしたちが感じている痛みとはいったい何でしょう。貧富の差や地域紛争など、さまざまなことが考えられますが、それらの根底にあるのは、人を踏みつけにしても、自分さえよければいいと考えるエゴイズム。そして、その産物である競争社会の論理ではないかと思います。社会的な成功をおさめ、裕福な生活を手に入れた人は価値のある人間、そうでない人は価値のない人間と決めつける競争社会の論理の中で、多くの人たちが苦しんでいるのです。この論理は、誰も幸せにすることがありません。成功した人たちは、さらなる成功を求める競争の中で苦しみ、成功しなかった人たちは、自分の価値に疑問を感じて苦しむのです。まさに、人類を苦しめる最悪の病だといっていいでしょう。とりわけ、弱い立場に置かれた人たちが、この論理の犠牲者となります。子どもや病人、老人など、生産性が低いと思われている人たちは、そのまま人間としてあまり価値のない人として扱われ、馬鹿にされたり無視されたりすることが多いのです。
 イエスは、十字架上でこの人たちの苦しみを担いました。すべての人間が多かれ少なかれ感じている、競争社会の論理の中で自分の人生に意味がないと感じる苦しみ、神からさえも見捨てられたと感じる苦しみをイエスは味わったのです。エスが担ったのはまさに、「わたしたちの病」であり、イエスが負ったのはまさに「わたしたちの痛み」だったと言っていいでしょう。イエスは今も、社会の片隅に追いやられ、価値のない人たちとして馬鹿にされている人たちと共にいて、その人たちの苦しみを共に担っています。イエスはいまも、十字架の苦しみを味わい続けているのです。
 苦しんでいるイエスを、わたしたちは放っておいていいのでしょうか。イエスだけを苦しませておいてよいのでしょうか。主が苦しんでいるなら、わたしたちもそこに行って、共に苦しみを担うのが弟子というものでしょう。わたしたちには、社会の片隅に追いやられた人たちのもとに行き、その人たちと共に、その人たちの中で苦しんでいるイエスと共に苦しみを担う使命が与えられているのです。
 先日、熊本でフグ鍋の集いをしたとき、仮設住宅の管理をしておられる職員の方が、「時間がたつにつれて、忘れられていくことが一番つらい」とおっしゃっていました。自分たちのことを忘れないでいてくれる人たちの存在が、復興のための大きな支えになるというのです。これからも、わたしたちにできることを見つけ出し、人々の苦しみに寄り添う使命を果たしてゆきましょう。