バイブル・エッセイ(799)墓から抜け出す


墓から抜け出す
 安息日が終わると、マグダラのマリアヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコ16:1-7)
 イエスの死から3日目の朝、マグダラのマリアや弟子たちが墓に行ってみると、墓が空になっていたという箇所が読まれました。福音書の記者たちが、キリストの復活をこのようなかたちで伝えたことには、とても意味があるように思います。復活とは、墓の闇から抜け出して、光の中を歩むということ。古い自分から抜け出し、神の愛に包まれて生きるということなのです。
 古い自分とは、さまざまな思い込みや心配事、不安、恐れなどのなかに閉じこもっている自分だと考えたらいいでしょう。わたしたちは、古い自分という墓の中に、自分自身を閉じ込めているのです。たとえば、「勝ち組、負け組」という言葉に象徴される、社会的に成功した人には生きる価値があり、成功しなかった人には生きる価値がないという考え方。この中に閉じこもって生きている人は、「失敗したら生きる価値がなくなる」という恐れや、「失敗ばかりの自分の人生には意味がない」という絶望の闇の中に生きています。闇の中で勝った、負けたに一喜一憂し、いつまでたっても本当の幸せにたどり着くことができない。自分で入り込んだ墓の闇のなかを、ぐるぐると歩き回っている。それが古い自分、思い込みの中に閉じこもっている自分です。
「ああなったらどうしよう、こうなったら困る」と心配ばかりしている人もまた、自分を恐れや不安という闇の中に閉じ込めています。この闇は、自分の力ではどうにもならないことを、自分の力でなんとかしようとするときに生まれてくる闇です。自分の力ではどうにもならないこと、寿命や健康、家族や友人の心などを自分の思いどおりにしようとするから、恐れや不安が生まれてくるのです。すべてを自分の思い通りにしようとして、恐れや不安の闇の中をぐるぐると歩き回っている状態。それが古い自分、不安や恐れの中に閉じこもっている自分です。
 この古い自分から抜け出すことこそ古い自分に死ぬということであり、古い自分から抜け出して神の愛の光の中に出ることこそが復活です。神の愛は、わたしたちすべての上に豊かに降り注いでいます。「自分の人生には価値がない」という思い込みを捨て、墓の外に出さえすれば、そこは光にあふれた愛の世界なのです。これ以上成功できなくても、社会的に見て失敗ばかりだったとしても、神様はわたしたちをあるがままに受け入れて下さるのです。そのことに気づくとき、わたしたちは安らぎに満ちた永遠の幸せへと一歩を踏み出します。「ああなったらどうしよう、こうなったら困る」と心配するのをやめ、神にすべてを委ねさえすれば、墓は砕け、天からの光がわたしたちの心に射しこみます。そのとき、わたしたちの心は静かな喜びと力で満たされ、愛の力によってこれまでできなかったことさえできるようになるのです。それが、復活ということなのです。墓から抜け出し、神の愛の光に包まれて生きられるよう、心を合わせてお祈りしましょう。