バイブル・エッセイ(801)「まさしくわたしだ」


「まさしくわたしだ」
 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。(ルカ24:36-43)
 イエスを見て亡霊と思い込み、恐れ、うろたえる弟子たちに向かって、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」とイエスは言いました。十字架につけられたときに出来た手と足の傷跡こそ、まさしくイエスがイエスであることの証。イエスが生涯をかけて貫いた、神の愛の証であり、イエスという人物そのものの証だということでしょう。相手が本当にイエスか確かめたいなら、その人の手と足に、十字架の傷があるかを見ればよいとも言えます。「わたしがイエスだ」と言って近づいてくる人がいたとしても、もしその人の手と足に、人々のために苦しんだ傷跡がないなら、それはイエスではないのです。
 苦しんだ痕跡が、その人の人生を物語る。その人が誰であるかを証するということが、確かにあります。たとえば、マザー・テレサがそうでした。いつか天国でマザーと出会い、その体が光り輝いていて本当にマザーかどうかよく分からないときには、その人の足を見たらよいでしょう。マザーの足の親指は、大きく内側に向かって曲がっていました。いわゆる外反母趾です。貧しい人たちのものを訪ねて、何千キロ、何万キロも歩き続けた結果、そのようになってしまったのでしょう。マザーの足は、まさに彼女の愛の証であり、彼女がだれであるかをはっきりと語るものでした。マザーの足こそ、イエス・キリストがマザーの中に生きていて、マザーを通して働いているということの証だったとわたしは思います。
 マザーだけではありません。たとえば、亡くなったうちのおじいちゃんで言えば、大きな手こそが愛の証だったように思います。おじいちゃんは戦争から帰ったあと、貧しい中で、日々家族のために畑を耕し続けました。出荷のために野菜を束ね、紐でしばってゆくおじいちゃんの手は大きくて、ごつごつしたものでした。その手は、おじいちゃんがどれだけ家族のために頑張って働いたかを物語るものでした。天国でおじいちゃんと再会したならば、わたしはまずその手を確かめることでしょう。おじいちゃんはキリスト教徒ではありませんでしたが、おじいちゃんの中にも、確かにイエスが生きていたように思います。
 では、わたしたち自身はどうでしょうか。「あなたの中にイエスがいるの?本当にイエスの愛を生きているの」と問われたときに、「〇〇を見なさい。まさしくわたしだ」と言えるようなものが何かあるでしょうか。身体的な特徴だけに限らないでしょう。その人の人格にはっきりと刻み込まれた愛の痕跡。例えば、謙虚さや穏やかさ、柔和さといったようなものでもいいかもしれません。家族や友達、社会の片隅に追いやられて苦しんでいる人たちために働く中で、体や心に深く刻み込まれた「傷跡」、愛の痕跡がわたしたちにはあるでしょうか。今からでも遅くはありません。イエスの愛を全身で生きることによって、体と心にしっかりと愛の痕跡を刻み込んでゆきましょう。