バイブル・エッセイ(803)愛の実を結ぶ


愛の実を結ぶ
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。」(ヨハネ15:1-8)
「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」とイエスは言います。イエスと固く結ばれている限り、わたしたちはたくさんの実を結ぶことができるというのです。その実は、わたしたちの心に宿ったイエスの愛から生まれる実。愛情がたっぷり込もった優しい言葉や親切な行いこそが、わたしたちのつける実だと考えたらいいでしょう。
 たとえどんなに大きな実をつけたとしても、その中に愛がまったくこもっていないなら意味がありません。愛こそが、実をとって食べる人たちの命を養う栄養だからです。奉仕活動でどこかに出かけたというようなことがあっても、「言われたので仕方なく嫌々やっています」という感じで、暗い顔で黙って支援物資を手渡すというようなことでは、受け取った人はあまりいい感じを受けないでしょう。「食べてお腹はいっぱいになったけれど、心は満たされない。さびしい気持ちでいっぱいだ」、そんなことになってしまいかねません。相手をいたわり、いとおしむわたしたちの心こそが、受け取った人の心を喜びで満たし、生きる力を与える本物の実なのです。大切なのは、どれだけたくさんの実を結ぶか、大きな実を結ぶかということではなく、どれだけ愛情たっぷり、栄養たっぷりの実を結ぶことができるかということです。
 栄養たっぷりの実を結ぶためには、木であるイエスとしっかりつながっていることが不可欠です。では、どうしたらイエスとつながることができるのでしょう。そのためには、感謝することだと思います。イエスがどれだけわたしたちに豊かな恵みを与えてくださっているかに気づき、それに感謝する中で、わたしたちの心は神様の愛に満たされてゆくのです。今日もこうして元気に一日を始められたこと。愛する家族に囲まれている。教会に来れば、気の合う仲間たちがいる。朝ごはんがおいしかった。そのようなことの一つひとつを感謝する中で、わたしたちはキリストというブドウの木にしっかりつながり、心を愛で満たされてゆくのです。ブドウの木につながるとは、キリストの愛をしっかり受け止めること、キリストの愛に感謝することに他なりません。
 ブドウの実は、初夏の頃にしか実をつけませんが、キリストにつながっているわたしたちは、どんな時でも愛の実をつけることができます。エスは、どんなときでもわたしたちの心に愛を注いでくださるからです。「いまは実をつけるシーズンではありませんから」ということは理由になりません。どんなときでも、神様の愛に気づき、感謝できるように。心を喜びと力で満たされ、愛の実を結ぶことができるように祈りましょう。