バイブル・エッセイ(809)真の家族


真の家族
 エスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコ3:20-35)
 母マリアを始め、血縁の人々がイエスを説得しに来たとき、イエスは人々に向かって、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と語りかけました。エスを心配している肉親に対して冷たい言葉ともとれますが、イエスは何を伝えたかったのでしょう。
 この箇所は、イエスの身内の人たちがイエスを連れ戻そうとしてやって来る場面から始まっています。身内の人たちは、イエスが悪霊に取りつかれておかしくなり、みんなに迷惑をかけるようなことを始めた。何とかして止めなければ一族の恥だと思ってやって来たに違いありません。そんな身内に向かって、イエスは「どうして、サタンがサタンを追い出せよう」と語りかけます。「見なさい。こうして、人々が病から癒され、健康を回復している。喜びの中で、神を讃美している。こんなことが、サタンにできると思うか」とイエスは言いたかったのでしょう。理屈で考えたとしても、悪の力を借りて、悪を追い出そうとすれば、悪の闇に呑み込まれるだけ。現にこうして、善が実現しているならば、それは善の力によって行われているに決まっているではないかということです。身内の人たちは、イエスが確かに善いことをしているのを見て、納得して帰って行ったに違いありません。こうしてイエスは、「家が内輪で争う」危機を、なんとか回避したのです。
 これは、わたし自身も経験があることです。わたしが神父への道を歩み始めたとき、家族や親せきはみな反対しました。ですが、最近はあまり反対しません。たくさんの人たちが、わたしの活動を喜んでいるのを見たからです。「まあ、いいことをしているようだから、本人のやりたいようにしてやろう」というくらいのところで、何とか受け入れてもらっているというのが、わたし自身と家族の関係だと言っていいでしょう。「苦しんでいる人を助けるのはよいことだ」と感じさせる霊、聖霊の力がわたしの家族にも働いて、そのように導いてくださっているのだと思います。
 マリアや血縁の人たちも、イエスのよい行いを見て、きっと納得したに違いありません。イエスも、自分の家族であれば、きっとわかってくれるに違いないと思っていたのでしょう。「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」というイエスの言葉には、そんな思いも感じられます。マリアたちも、神の御心を理解し、わかってくれるに違いない。真の家族に加わってくれるに違いない。イエスは、そう確信していただろうと思います。わたしたちも、人々を救いたいと願う愛の力に突き動かされたよい行いによって、家族に、また社会の人々に証してゆきましょう。