バイブル・エッセイ(811)「起きなさい」


「起きなさい」
 エスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。
 イエスが手をとって「起きなさい」と言うと、死んだはずの少女が起き上がったとマルコは伝えています。滅多に起こらない、とても大きな奇跡のようにも思えますが、もしかするとこの奇跡は、わたしたちすべてに起こることなのかもしれません。わたしたちが地上での命を終え、息絶えて横たわっているとき、イエスがやって来てわたしたちの手を取り、「起きなさい」と声をかけてくれる。わたしたちは起き上がって、イエスと共に天の国に挙げられてゆく。そんなことが起こるのではないかと、わたしは想像しています。それは、悲しんでいる家族や友人たちには見えない現実かもしれません。ですが、わたしたち自身には、まぎれもない事実として起こることなのです。地上での命を終えた後、わたしたちは、イエスの大いなる愛に触れて、新しい命によみがえるのです。 
 「恐れることはない。ただ信じなさい」とイエスは言います。生かすために人間を造られた神は、人間を死の中に放っておくことなど絶対にない。肉体が死んでも、必ず生き続けるための力を与えてくださる。新しい命を与えてくださる。そのことを信じなさいということでしょう。イエスが声をかけてくれたとしても、「いや、わたしはもう死にました。もう終わりなのです。放っておいてください」と言って起き上がらなかったら、わたしたちは決してよみがえることができないでしょう。信じて心を開くときにだけ、わたしたちはイエスの愛の中で新しい命によみがえるのです。エスの呼びかけを聞いて、「あなたが必ず来てくださると信じていました」と言って起き上がるとき、わたしたちは新しい命によみがえるのです。
 これは、生きているあいだにも言えることでしょう。大きな試練に直面し、周りの人から「あの人はもうだめだ」と思われ、自分自身でも「わたしはもうだめかもしれない」と思っているときでさえ、イエスはわたしたちのところに来てくださいます。わたしたちの手を取って、「起きなさい」と声をかけてくださるのです。その呼びかけに答えて起き上がることさえできれば、わたしたちは新しい命によみがえるのです。「死んだ気になって頑張る」とか、「生まれ変わるなら、死んでからではなく、生きているうちに」などと言いますが、イエスの愛と出会うとき、古い自分に死んで、神の愛の中で新しい命によみがえるということが確かに起こるのです。イエスは、家族や友人の姿で来られることもありますし、まったく思いがけない人の姿で来ることもあるでしょう。「苦しんでいるこの人を、何とか助けてあげたい。この人のためなら、自分を犠牲にしてもかまわない」というほどの愛が宿るとき、その人の中には、確かにイエスの愛が宿っているのです。その愛に気づいて信じるとき、わたしたちは新しい命によみがえります。
 死の闇の中に横たわるとき、絶望のどん底で苦しんでいるとき、イエスは必ず来てくださいます。イエスの愛に触れて、わたしたちは再び立ち上がるための力を与えられるのです。死んだ後に起こる復活、生きている間に起こる復活を信じ、あらゆる苦しみを乗り越えられるように祈りましょう。