バイブル・エッセイ(814)感謝して分かち合う


感謝して分かち合う
 エスガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。(ヨハネ6:1-15)
 「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた」、すると集まったすべての人たちが満腹するほどパンが増えたという奇跡が語られています。神様の恵みは、感謝して受け取るとき、わたしたちの心を愛で満たしてゆく。心を満たした愛は、分かち合うことで無限に増え、すべての人の心を満たしてゆく。この奇跡は、わたしたちにそのことを教えているように思います。感謝して分かち合うことで、神の愛を無限に増やしていく。それこそが、わたしたちの使命だと言ってもいいでしょう。
 神様の恵みは、感謝して受け取るとき、わたしたちの心を愛で満たしてゆきます。今日も元気に起きられた。食事をおいしく頂けた。友だちと楽しい時間を過ごすことができた。そのようなことを一つひとつ思い起こし、神様に感謝する中で、わたしたちの心は愛で満たされてゆくのです。心が、喜びや力、安らぎで満たされてゆくと言ってもいいでしょう。わたしたちの心を満たした愛は、誰かと会ったとき、自然にその相手に向かって流れ出してゆきます。思わず相手ににっこりほほ笑み、元気いっぱいに「おはよう」と挨拶したり、「近頃、体の具合はどうですか」などと優しい言葉をかけたりせずにいられなくなるのです。そのようにして分かち合っても、愛が減ることはありません。むしろ、出会うすべての人たちの心に広がって、無限に大きくなってゆくのです。ここに、愛の秘密があるように思います。どんなに小さな恵みであったとしても、その恵みを神に感謝して受け取るならば、わたしたちの心は愛で満たされる。わたしたちの心を満たした愛は、分かち合うことで無限に大きくなってゆく。それが、愛の秘密なのです。
 逆に、感謝しないならば、愛を受けとることはできません。「これっぽっちが、何の足しになるでしょうか」などと言って感謝しなければ、その小さな恵みに込められた、神様の無限の愛を受け止めることができなくなってしまうのです。そればかりか、せっかく恵みを頂いていながら不満ばかりを口にし、出会った人たちの心にまで不愉快な気持を広げてゆくことにもなりかねません。まずは、神様の恵みを感謝して受け止められるかどうかに、すべてがかかっていると言っていいでしょう。「恵みが少なすぎる」、と不満を言うことはできません。どんなに小さな恵みであっても、感謝して受け取るならば、わたしたちの心は神様の無限の愛で満たされてゆくのです。すべての恵みの中には、神様の無限の愛が込められているのです。
 感謝して受け取り、惜しみなく分かち合う。分かち合うことで、すべての人の心を神様の愛で満たしてゆく。これこそ、わたしたちの使命だと言っていいでしょう。わずかなことにも感謝し、神様の愛をしっかり受け止めることからすべてを始めてゆきましょう。