バイブル・エッセイ(820)再会の日まで


再会の日まで 
 エスティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。(マルコ7:31-35)
「そのとき、見えない人の目が開き聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う」というイザヤの預言の通り、イエスが人々の目や耳を開いてゆく場面です。いまこのとき、人々に救いが訪れたのです。この喜びは、わたしたち自身の喜びでもあります。いつの日か天国でイエスと出会うとき、イエスはこの人にしたのと同じように、わたしたちの目や口を開いてくださるでしょうし、弱ってしまった足を元通りにし、口に喜びの歌を取り戻してくださるに違いありません。
 敬老の日ということで、20年前に亡くなった祖母のことを思い出しました。わたしの祖母は、40代で夫を事故で亡くし、その後、わたしの父である長男にも病気で先立たれています。晩年は、脳梗塞で体が不自由になり、ベッドに横たわっていることが多かったように思います。わたしは「おばあちゃん子」だったので、祖母についての思い出は尽きないのですが、いまでも印象にはっきり残っていることの一つは、毎朝、仏壇の前で一生懸命に祈っている祖母の姿です。杖をついて仏壇の前まで行き、震える手で線香をあげると、手を合わせて祈り始めます。そして、仏壇に向かって話し始めるのです。まるで、亡くなった自分の息子、わたしの父が目の前にいるように、「お父さん、今日はこんなことがあった。あんなことがあった」というようなことを、延々と1時間以上も話し続けるのです。きっと、祖母には、仏壇から語りかける息子の声が聞こえていたに違いありません。もしかすると、顔さえも見えていたのかもしれません。愛する人たちに先立たれて孤独な日々を過ごす祖母の耳を、目を、神様が開いて、死者たちと話ができるようにしてくださったのではないかとも思います。
 病気や老化によって見えにくくなった目、聞こえなくなった耳が、いますぐ元通りに戻ることはないかもしれません。ですが、天国でイエスと出会うとき、イエスはわたしたちの目と耳を開いてくださいます。そして、わたしたちは、イエス様やマリア様、ヨセフ様、すでに世を去った愛する夫、妻、子ども、友人たちの姿をはっきりと見、その言葉を耳で聞くことができるのです。そのときには、きっと、この地上では見えていなかった相手のよさも見えるようになるでしょうし、地上では照れくさくて口にすることができなかった優しい言葉も聞くことができるでしょう。ここに大きな希望があると思います。天国でわたしたちは、再び力を取り戻した足、腕で、その人たちと再び固く抱き合うことができるのです。
 その喜びは、いますでに実現したとも言えます。もしわたしたちが天国に待っている喜びを信じることができるなら、待っているこの時間も、喜びに満ちた時間になるからです。クリスマスを待っているあいだも、すでにクリスマスの喜びが始まっているのと同じように、もう天国の喜びは始まっているのです。聖書で語られた喜びを、自分自身の喜びとして味わうことができるように祈りましょう。