バイブル・エッセイ(840)愛の神秘

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愛の神秘

 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(一コリ13:4-13)


「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない」というパウロの言葉、いわゆる「愛の讃歌」が読まれました。この箇所は、「神の讃歌」と呼んでもいいかもしれません。この箇所の愛という言葉を、そのまま神に置き換えると、神の愛の深さをより身近に感じられるように思います。「神は忍耐強い。神は情け深い。ねたまない。…神は、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。神は決して滅びない」のです。 
「愛とは相手を大切に思うこと」「愛とはゆるすこと」など愛についての定義は無数にありますが、どれも不完全で、愛を完全に定義できているとは言えません。愛が神から生まれ、神そのものであるならば、それは当然のことと言えるでしょう。人間が、神を知り尽くすことなどできないからです。わたしたちが言えるのは、愛しているときに、神の愛に突き動かされて生きているときに、人間はこうなる、こう感じるということだけなのです。
 愛には、その根源に神秘があります。例えばわたしたちが誰かを愛するとき、その理由を言葉で説明することができるでしょうか。なぜその人のために、そこまでしなければならないのか。なぜその人のことをそんなに思うのか。なぜ自分を犠牲にしてまで尽くすのか。そう問われても、なかなか答えることはできないのです。それは、愛が人間の思いを越えた世界から生まれて来ることの一つの証拠だと思います。「なぜ愛するのか」と問われても、「愛するから愛するのだ」としか答えようがないのです。
 人間は、どんなに頑張っても、自分の力で愛を造りだすことはできません。例えば、「そろそろ結婚の適齢期が来たから、ちょうどいい相手を見つけて愛そう」と思っても、それはなかなか難しいことです。愛は、誰かと出会ったとき、何の努力もなくわたしたちの心に生まれるものなのです。愛は、造り出すものではなく、与えられるものだと言っていいでしょう。
 例えば、道端で誰かが倒れているのを見たとき、わたしたちは無意識のうちにその人の側に近寄って声をかけるでしょう。重病だと分かれば、担いで近くの病院まで運ぶことだってするかもしれません。ですが、そのとき、わたしたちは自分がなぜそこまでするのかと考えることはないでしょう。心に宿った愛に突き動かされ、自然に体が動いているからです。心に神様が宿り、神様がわたしたちを使ってその人を助けたと言ってもいいかもしれません。
 神の愛の全容を、わたしたちはまだ知りません。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」とパウロが言うように、この世界では、まだ完全に神の愛を知り尽くすことはできないのです。やがて復活のときが訪れ、天国で「顔と顔を合わせて」神と出会うとき、わたしたちはそのあまりの大きさ、深さに圧倒されることでしょう。神は、人間の心を通してこの世界に流れ出すすべての愛の源泉であり、愛そのものなのです。愛の神秘を思いながら、愛とつながって生きることができるように祈りましよう。