バイブル・エッセイ(844)「よい倉」と「悪い倉」

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「よい倉」と「悪い倉」

「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」(ルカ6:43-45)
「善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す」という言葉が読まれました。口から出る言葉に、その人の心が現れるということです。ここでは、「善い人」「悪い人」という表現が使われていますが、わたしたちは誰しも、心の中に「よい倉」と「悪い倉」を持っているように思います。問題は、そのどちらの扉を開くかということなのです。
 例えば、体に疲れが溜まっていて、心にゆとりがないとき、わたしたちは心の表面にある「悪い倉」の扉を開いてしまいがちです。そして、倉の中にある恐れや不安、苛立ち、あせりなどを手当たり次第に言葉にし、相手に投げつけてしまうのです。心のもう少し深い所に、誰かに対する怒りや憎しみをため込んでいる「倉」を持っている場合もあります。その倉の扉は、その人のことが偶然話題になったときなどに勝手に開き、「あいつは気に喰わない」「あの人さえいなければ」という思いがあふれ出してくるのです。劣等感をため込んだ「倉」を持っている場合もあります。他の誰かが褒められているのを聞いたときなど、その「倉」の扉が開いて、そこから「あの人と比べて、どうせわたしはダメ人間だから」などというネガティブな言葉や、褒められた人への悪口があふれ出してくるのです。
 自分自身でも、話しているうちにその倉の存在に気づくことがあります。「あれ、まずいことを言ってるな」「こんなこというはずじゃなかったのに」などと言ってしまってから気づくのは、自分の心の中にどんな倉があるか気づいていなかった証拠です。話してみないと、自分でも自分の心の中にどんな倉があるかわからないとも言えるかもしれません。ときどき、自分の言動を省みて、心の中にどんな倉があるのか確認する必要があるでしょう。そして、中に入った「悪いもの」を外に出す必要があるのです。
「悪いものを入れた倉」の話ばかりしましたが、どんな人でも、心の一番奥深い所には必ず「よい倉」があります。わたしたちの心の一番奥深くには、必ず神様の愛が宿っており、その中には、温かな優しさや思いやりに満たされた「倉」があるのです。その「倉」が開くとき、わたしたちの口は、喜びや安らぎに満たされたよい言葉を語ることができるでしょう。
 ただ、その「倉」は心の奥深い所にあるので、なかなか見つけることができません。祈りの中で心の深みに降りたとき、初めて見つけられる「倉」なのです。口を開く前に、感情を鎮め、思い込みや執着を手放し、心を静かにする時間を持つことが大切だと思います。一瞬立ち止まって心を鎮めれば、心の奥深くにある「倉」の扉が開いて、自然とよい言葉が流れ出すはずなのです。どんなときでも、よい「倉」からよい言葉を取り出すことができるよう、神様に助けをお願いしましょう。