バイブル・エッセイ(846)自分を委ねる

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自分を委ねる

 イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた。すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。(ルカ9:28b-36)

「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」と聖書は伝えています。文脈から言って、その祈りは、イエスが「エルサレムで遂げようとしている最期」に関わることだっただろうと思われます。おそらく、イエスは祈りの中で自らの死について神に問い、自分の命を神の手に委ねる決断をしたのでしょう。その瞬間、イエスの顔の様子が変わり、真っ白に輝き始めたのです。
 イエスが自分を完全に神の手に委ねたこと、自分自身に死んだことによって、イエスの体が光を放ったということから、この出来事は「復活の先取り」とも言われます。自分自身に死ぬとき、わたしたちを通して復活の栄光が輝くのです。ですが、自分に死ぬ、自分を神の手にすっかり委ねるとはどういうことでしょう。
 わたし自身は、文章を書くときにこのことをよく体験します。説教の原稿やエッセイなどの文章を書くときに一番よくないのは、頭だけで考え、「こんなことを書けば受けるだろう」という予断をもって書き始めることです。そのような文章は、おもしろい文章になるかもしれませんが、残念ながらほとんどの場合、心に響く文章にはなりません。それでは、一過性で消えてしまう文章しか書けないのです。
 文章を書く前に、わたしは心を空にするようにしています。与えられたテーマだけを念頭に置き、「こう書いたらどうだろう」「ああ書けば受けるかもしれない」などという思いはすべて脇に置いて、ただ「神様、わたしを通してあなたのみ旨が行われますように。あなたがこの機会を通して人々に伝えたいことを、わたしを通してお伝えください」と祈るのです。すると、場合によっては数時間くらいかかることもありますが、ある瞬間にひらめきが訪れます。心の奥底から、「伝えるべきことはこれだ」という思いがほとばしり出てくるのです。そのようにして書かれた文章は、多くの場合、読者の心に残る文章になります。自分を空にするとき、神様の思いがわたしを通してあふれ出す。神様の愛が、わたしを通してあふれ出す。文章が輝きを放つ。そんな感じです。もちろん、焦って頭で書いてしまうこともありますが、そのような文章には輝きがありません。
 文章を一例にしてお話ししましたが、祈りの中で神様に自分をすっかり委ねるとは、予断を捨て去り、心を空にして神のみ旨に耳を傾けること。神の手に自分を委ねることだと言っていいでしょう。
 たとえば、物事が自分の思った通りにならず、「こんなはずじゃなかった」と思ったときには、その思いを脇に置き、「神様、与えられたこの状況の中で、何をすればよいのでしょうか」と問いかける。あるいは、たとえば、人助けをしていて「これ以上やったら自分の身に危険が及ぶ」「もうこれ以上はできない」と思ったときには、その思いを脇に置き、「神様、あなたのみ旨をわたしに教えてください」と問いかける。そして、神様の導くままに自分を差し出してゆくなら、そのときわたしたちの人生は復活の栄光を放つのです。人々の心に響く人生になると言ってもいいでしょう。自分に死ぬことによって復活の栄光を証出来るよう、共に祈ってゆきましょう。