バイブル・エッセイ(847)後に残せるもの

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後に残せるもの

 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」(ルカ13:1-5)

 事件や事故に巻き込まれて死んでいった人たちのことを、まるで他人事のように語る人たちに向かって、イエスは、「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言いました。同じ言葉を、2度繰り返していることからイエスの思いの強さがうかがわれます。突然の、思いがけない死は、わたしたちにとっても決して他人事ではありません。わたしたちは、いつ死がやって来てもいいように、いつも準備しておく必要があるのです。
 先日、ある葬儀に参列したとき、先輩の司祭から、「わたしたちもやがて、あのように冷たくなって、棺桶に寝かされる日が来る。そのときに、すべてが分かるだろう」と言われました。亡くなったのが自分と年齢の近い方だったこともあり、わたしはその言葉を聞いて深く考えさせられました。わたしは普段、まだしばらく生きられることを当然と思い、「あれもしなければ、これもしなければ」と仕事に追われて生活しています。ですが、そのことにどんな意味があるのか、立ち止まって考えることはあまりないのです。
 葬儀の後で、一緒に参列した人たちと話をしていて、一つ気づかされたことがありました。亡くなった方はとても高い地位につき、さまざまな業績を上げていた方だったのですが、「あんなに能力の高い人を失って残念だ」とか、「あの業績をさらに伸ばせたはずなのに」などと言って嘆く人は誰もいなかったのです。皆さん、「あの人のお陰で、わたしはどれほど助けられたか」「あの人からは、本当に大切なことを学ばせてもらった」などと言いながら、涙をぬぐっておられました。つまり、亡くなった方がこの世に残したのは、業績や評価ではなく、その方が人々に与えた愛だったのです。亡くなった方も、きっと天国からその様子を見て、自分の人生の意味がどこにあったかを知り、心から満足しておられるに違いない。わたしはそう思いました。棺桶に寝かされるときにすべてがわかるとは、きっとそういうことなのでしょう。
 そのように考えると、人生で一番大きな無駄は、地位や業績などのために人と争ったり、人を蹴落としたりすることでしょう。そのようなことをして地位や業績を手に入れたところで、結局、そのようなものは残らないのです。人を憎んだり、妬んだりするために使う時間こそ、人生の一番の無駄づかいと言っていいかもしれません。
「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」という言葉を、自分自身に向けられた言葉としてしっかり受け止めたいと思います。もし時間を無駄づかいしていれば、突然に死がやって来たときにどんなに後悔しても手遅れなのです。いつ死が訪れてもいいように、心を整え、生活を整えてゆきましょう。