バイブル・エッセイ(850)真理とは何か?

f:id:hiroshisj:20190419211129j:plain

真理とは何か?

 ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。(ヨハネ18:33-38)

「あなたは王なのか」というピラトの問いに対して、「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」とイエスは答えました。イエスがもし王であるとするなら、それは真理を求める人々が自発的にイエスの周りに集り、イエスに従うことによって生まれる国の王、「真理の国」の王なのだということでしょう。「真理とは何か」とピラトはイエスに問い返しますが、もっともな質問だと思います。真理とは一体、なんなのでしょう。どうすれば、わたしたちは、イエスの統べる「真理の国」の国民になれるのでしょうか。
 真理とは、人間が生きてゆく上で、誰もがそうだと納得する事実。中でもとりわけ、人間の幸せと直接に関わるような事柄を指しているように思います。多くの人が信じている一つの真理は、人間は死んだらおしまい。生きている間に少しでも多くの快楽をむさぼることこそが、人間の幸せだという考え方でしょう。自分のことばかり考えていては、すぐに行き詰まる。より多くの快楽をむさぼるために、互いに協力し、隣人に適度に奉仕する方が得だという考え方もありますから、このような真理に従って生きる人も、見かけ上は愛を実践しているように見えます。ですが、死の間際になれば、誰しも死を恐れることになるでしょう。どれほど地上の喜びをむさぼったとしても、欲望は無際限であり、「これで満足。もういつ死んでも構わない」ということにはならなかならないからです。
 そのような見せかけの真理しか見つけられない人間たちに、本当の真理を教えるためにイエスはやって来られました。それは、「人間の命は、死によって終わるものではない。地上の欲望をむさぼることよりも、もっと大切なことがある」という真理です。人間の命は、古い自分を十字架にかけ、自分に死ぬときにこそ本当の輝きを放つ。イエスが十字架上で苦しみ、死に打ち勝って復活したのは、この真理を、身をもって証するためだったと言っていいでしょう。
 イエス・キリストを信じたわたしたちは、十字架にこそ真理があることを知っています。人間の命は死によって終わるものではなく、地上の快楽をむさぼることよりも、神のみ旨のままに生きて天上の喜びを味わうことの中にこそ、本当の幸せがある。それこそが真理だと信じてキリスト教徒になったのです。ですが、それにもかかわらず、わたしたちは日常生活の中でついつい、地上の見せかけの真理に心を引かれ、少しでも地上の快楽をむさぼらなければ損だと考えてしまいがちです。そのたびごとに十字架の前に立ち、十字架を見上げるべきでしょう。十字架こそ、キリストが治める「真理の国」への道標であり、十字架を通らなければ誰も「真理の国」に入ることはできない。そのことを、今年も改めて、しっかり心に刻むことができますように。