バイブル・エッセイ(851)古い自分に死ぬ

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古い自分に死ぬ

 あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。(ローマ6:3-11)

「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」とパウロは言います。古い自分に死ぬことによって、キリストと共に新しい命によみがえる。それが、わたしたちが信じている復活です。「死んでから生まれ変わっても、もう手遅れ」という言葉を聞いたことがありますが、わたしたちの復活は死んだ後だけでなく、生きているうちに生まれ変わるということなのです。
 今年の聖週間、わたしは風邪を引いていました。教会の中では依然として「若手」と呼ばれますが、さすがに「アラフィフ」の声が聞こえ始め、だんだん無理がきかなくなってきているようです。体がだるくて動かなくなると、わたしは極端に機嫌が悪くなります。イライラして自暴自棄になり、周りに当たり散らすようになるのです。なぜそんなことになるのかと考えると、それは普段できることができなくなるからだと思います。やらなければならない仕事はたくさんあるのに、それが思った通り、いつものようにできない。「何でこんなこともできないんだ」という思いが、苛立ちを生むのです。
 これは、普段わたしが「自分の体は自分の思った通り動いて当然」と思い込んでいることの裏返しでしょう。健康に思い上がり、いつの間にか自分が自分の主人であるかのように思い込んでいるのです。そのため、体が自分の思った通りになると腹を立てて自分自身に当たり、そればかりか、その腹立ちを周りの人にぶつけたりするようになるのです。これは、「古い自分」がまだわたしの中で健在であることの証だと思います。
 アダムとエバの犯した原罪から人間の中に罪が入ったと言いますが、原罪の核となっているのは、自分自身を神とし、すべてを自分の思った通りにしようとする傲慢だと言っていいでしょう。自分を神とし、すべてを自分の思った通りにしたい自分こそが、アダムとエバ以来の「古い自分」なのです。「古い自分」に死ぬとは、自分がただの人間に過ぎないことを思い出し、自分の限界を受け入れるということ。「新しい自分」に生まれ変わるとは、自分勝手な思い込みを捨て、神のみ旨に身を委ねるということだと言っていいでしょう。
 風邪の例で言えば、「自分はもっと出来て当然。わたしとしたことが、何でこんなことも出来ないんだ」という思いを捨て、「これがわたしの体力の限界。ここまで出来たことを神に感謝し、いま与えられている力でできる限りのことをやろう」と考えるのが「古い自分」に死んで、「新しい自分」に生まれ変わるということでしょう。「新しい自分」に生まれ変わるとき、苛立ちは消え、代わりに穏やかな喜びがわたしたちの心を満たします。そして、やはり同じように疲れている家族や友だちに、やさしい言葉をかけられるようになるのです。
 復活とは、暗い墓穴から出ることだとも言われます。「古い自分」にこだわっているとき、わたしたちの心に生まれる苛立ちや怒り、不安、恐れ。そういったものが生み出す闇こそが、墓穴だと考えたらいいでしょう。墓穴から出るとは、何の恐れもない、喜びと感謝に満ちた光の中で生きるということなのです。「古い自分」に死に、喜びと感謝に満たされた「新しい自分」に復活できるよう祈りましょう。