バイブル・エッセイ(852)自分を忘れる

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自分を忘れる

 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。(コロサイ3:1-4)

「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」とパウロは言います。キリストと共に死んだ以上、わたしたちの命はもはやこの地上にはない。もし自分の命、生きる意味や力を見つけ出したいならば、天に目を向ける以外にないということでしょう。わたしたちの命、わたしたちの本当の人生は、キリスト共に天に隠されているのです。
「自分探し」とよく言います。わたし自身も、若いころ、真剣に「自分探し」をしていた時期がありました。自分らしい生き方、生き甲斐のある人生を、必死で探し求めていたのです。ですが、それはなかなか見つかりませんでした。「ある角度から見るとこちらの人生の方が有意義に思えるけれど、別の角度から見るとあちらの方が有意義だ。一体、どちらが自分にとって一番いいのだろう。結果として得なのだろう」という風に考えても、同じところを行ったり来たりするだけで、なかなか結論がでなかったのです。地上の物はすべて移り変り、考えるべき要素そのものが刻々と変化してゆきます。それどころか、判断を下す自分自身もどんどん変化してゆきますから、その中でいくら損得勘定をしても決定的な結論に到達することはできない。それは、ある意味で当然のことでしょう。
 自分が見つかったと思ったのは、そのような自分中心の考え方を捨てたときでした。もうこれ以上考えても仕方がないと覚悟を決め、神の前に跪いて「あなたがわたしに望まれることはなんでしょうか」とひたすら問い続ける中で、あるときついに自分の道が示されたのです。アッシジのフランシスコの「平和の祈り」の中に、「自分を忘れることによって自分を見出し」という一節がありますが、自分中心に、損得勘定を巡らせて「自分探し」をしている限り、決して自分は見つかりません。自分のことを脇に置き、ただ神のみ旨を求めるとき、わたしたちは初めて本当の自分を見つけることができるのです。それが、「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」ということなのだろうと思います。
 墓穴の中にイエスはいなかったという出来事も、この真理を指し示すものと読むことができるでしょう。自分中心の考え方しかできない「古い自分」、地上の物に心を引かれて損得勘定ばかりしている自分をわたしたちは葬りました。いつまでも、その同じ考え方の中にとどまっていては、復活の命を見つけることができません。エゴイズムに引き回され、恐れや不安に満たされた墓穴の中にとどまっていては、復活の命を見つけ出すことができないのです。
「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」という言葉は、わたしたちが目を向けるべき方向をはっきり指し示しています。喜びと力に満ちあふれた本当の人生、神様のみ旨にかなった本当の自分として生きるために、いつも自分ではなく天を見つめて歩んでゆけるよう祈りましょう。