バイブル・エッセイ(854)弱い指導者

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弱い指導者

 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。(ヨハネ21:15-19)

 イエスがペトロに向かって、三度「わたしを愛しているか」と問いかける場面が読まれました。なぜイエスは、あえて三回も同じ質問をしたのでしょうか。それはおそらく、ペトロに自分の弱さをしっかり思い出させるためだったと思われます。他の誰よりもイエスを愛していると言いながら、命惜しさにイエスを裏切り、三度もイエスを知らないと言ったペトロ。その弱さを心に刻んで忘れないことが、これからリーダーとなるペトロにとって何より大切なことだとイエスは思っていたのでしょう。
 これは、ペトロの後継者である教皇様のみならず、わたしのような末端の司祭に至るまで、教会を指導するすべての者が覚えておくべきことだと思います。わたしたちはつい、相手より自分を上に置き、優れた者が劣った者を指導するというような態度を取ってしまいがちだからです。例えば、信徒から悩みを相談されたとき、話もよく聞かないうちに、「またですか。だからね、何度も言ってるでしょ。聖書にこう書いてあるじゃないですか。これからは気をつけてくださいよ」といった指導をしてしまうのです。これでは、イエスに従うことにならないでしょう。
 もし自分自身の弱さを知り、自分も神にゆるしてもらった罪人であることを忘れないならば、相手の話を聞くときの目線は、常に相手と同じ高さにあるはずです。何度も聞いて、絶対にしてはならないとよくわかっていながら、それでもつい同じ罪を犯してしまう。自分自身もそうだ、その気持ちはよく分かると相手の弱さにしっかり寄り添い、「それでも、それにも関わらず神さまはわたしたちをゆるしてくださるのです。その愛に信頼して、次の一歩を踏み出しましょう」と語りかけるのが、わたしたちに与えられた使命なのです。教会に求められているのは「強い指導者」ではなく、むしろ「弱い指導者」、自分の弱さを知って遜り、相手の痛みに寄り添う指導者だと言っていいでしょう。
 イエスはさらに、あなたは「年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」という預言さえ与えています。人々に寄り添いながら生きる人生の最後は、人々のために自分の命を差し出すことだというのです。地上での見返りを求めるなら、それはまったく無駄なことだということでしょう。踏んだり蹴ったりのようですが、「それでもよければ、わたしに従いなさい。それがわたしに従うということだ」と、イエスはペトロに諭したのだと思います。
 これは、神父だけに求められることではないでしょう。信徒同士の関係にも、多かれ少なかれ当てはまることだろうと思います。互いに上から目線で罪を裁き合うのでなく、自分自身の罪深さを省みて相手の弱さに寄り添う。互いに、自分のことを最優先に考えるのではなく、相手のために自分を差し出してゆく。それこそ、すべてのキリスト教徒に求められていることでしょう。ペトロに向けられた三度の質問を、わたしたち自身に向けられた質問として、しっかり受け止めたいと思います。