キリストの平和
「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。」(ヨハネ14:23-29)
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」とイエスは弟子たちに約束しますが、但し「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない」と言います。「世が与える平和」とは、力と力の均衡によって生み出される平和、力で相手を従わせることによって生まれる平和でしょう。キリストが与える平和は、そのようなものではありません。キリストが与える平和とは、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」とイエスが言うように、謙虚な心で神を愛し、神の言葉に従って生きる人々の間に生まれる平和。互いへの愛に基づく平和なのです。
一緒に暮らしている80代の神父たちを見ていると、その平和が具体的にどのようなものかがわかります。たとえば、彼らは決して人の悪口を言いません。誰かが悪口を言い始めても決して同調せず、むしろ「まあ、でもあの人にもこんないいところがある」と言ってかばおうとします。それはおそらく、これまでの人生経験の中から、人間がどれだけ弱い存在であるかをよく知っているからでしょう。弱い人間同士、互いの弱さを暴き立てたところでどうにもならない。むしろ、弱い人間同士、互いのよさを認め合い、支え合いながらいきてゆくのが一番いいとわかっているのだと思います。自分自身が神からゆるされてきたことを知り、そのことを神に感謝して生きる人は、「互いにゆるしあいなさい」という神の言葉を当然のように守る、と言ってもいいでしょう。
彼らは、衣食住などについて不平不満を言うことがありません。与えられたものに感謝し、すっかり満足しているように見えます。歳をとって欲がなくなったということだけではないでしょう。ある神父さんはよく、「お金や名誉をどんなに手に入れても、もっと欲しくなるだけだ」と言います。彼らはおそらく、長い人生経験の中から、たくさんのものを求めても心が満たされることはない。むしろ、大切なのは感謝する心だと知っているのだと思います。何かを独り占めにしようとすることもありません。すべてを与えてくださる神に感謝し、必要な人がいれば、何でも喜んで分かち合います。自分がどれだけ神から与えられているかを知り、それに感謝して生きる人は、「互いに愛し合いなさい」という神の言葉を当然のように守る、と言ってもいいでしょう。
彼らは、聖霊に守られて生きていると言ってもいいでしょう。自分がゆるされていることを忘れず、それに感謝する謙虚な心、与えられていることを忘れず、それに感謝する謙虚な心に聖霊が宿ります。そして、その人をゆるしと愛の業に導くのです。謙虚な心で聖霊を迎え、キリストの平和を生きることができるように祈りましょう。