バイブル・エッセイ(858)心を引き継ぐ

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心を引き継ぐ 

 使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」使徒1:6-11

「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」と聖書は伝えています。復活し、永遠の命に生まれ変わったイエスですから、そのまま弟子たちと共に、教会と共に永遠に地上にとどまり続けることもできたでしょう。ですが、イエスはあえて天に帰り、弟子たちの前から姿を消しました。それは、なぜでしょう。
 昇天ということで、わたしが思い浮かべるのは、火葬場から昇ってゆく白い煙です。わたしたちは、イエスのように昇天することはありませんが、死んだ後、焼かれて煙となり、天に昇ってゆくのです。先日も、ある若者が病気で亡くなり、葬儀をして火葬場まで見送りました。彼が亡くなったことは大きな悲しみでしたが、その死に寄り添った友人たちからは、「これからは、〇〇君の分もぼくたちが頑張って生きる」という言葉が口々に聞かれました。天国の彼に恥ずかしくないような生き方、彼の友人としてふさわしい生き方をしてゆきたいということでしょう。亡くなった若者は、とても心が優しく、家族や友人のことを自分のことより先に考える人でした。友人たちも、彼の思いを心にしっかり受け止め、彼に倣って心の優しい人になってゆくことだろうと思います。彼はいなくなりましたが、彼の心は、ご家族や友人たちの中によみがえり、しっかりと引き継がれたのです。
 イエスの昇天にも、同じような意味があったのではないかと思います。イエスが昇天した後、聖霊が降ると、イエスの弟子として地の果てにまで出かけてゆきました。イエスの姿が見えなくなったことによって、彼らの心に「イエスの弟子として恥じない生き方をしよう」という思いと、その思いを実現するための力が宿ったのです。彼らの心に、イエスの命が宿ったと言ってもいいかもしれません。イエスの思いは、すべての弟子たちの中によみがえり、引き継がれたのです。
 それは、弟子たちの一人ひとりが、「神の愛の目に見えるしるし」になるということでもあります。もしイエスが昇天しなければ、「神の愛の目に見えるしるし」はいつまでもイエス一人だったかもしれません。弟子たちは、いつまでも目に見えるイエスに頼り続け、そのそばを離れられなかったことでしょう。ですが、イエスの姿が見えなくなったとき、弟子たち一人ひとりの心にイエスの霊が宿り、「神の愛の目に見えるしるし」として生きる決意が芽生えました。神の愛を生きる、「神の愛の目に見えるしるし」として生きようとする人が、たった一人から、何千人、何万にまで増えたのです。
 昇天から聖霊降臨という一連の典礼の中で、わたしたちの心にも同じことが起こります。イエスとつながっていなければ何もできないわたしたちですが、いつまでもイエスに頼るだけではいけないのです。イエスから頂いた恵みをしっかりと心に刻み、わたしたち一人ひとりがこの地上で「神の愛の目に見えるしるし」となってゆけるように、ご一緒に祈りましょう。