バイブル・エッセイ(866)罪のゆるし

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罪のゆるし

 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」(ルカ11:1-4)

 イエスが弟子たちに、祈り方を教える場面が読まれました。イエス自身が教えた特別な祈りですから、幼稚園でもこのまま子どもたちに教えるのですが、ときどき「わたしたちの罪を赦してください」というのはおかしいのではないかという疑問の声が上がります。3歳や4歳の子どもが、罪を犯しているとは常識的にいって考えられないからです。
 ここで罪というのは、「犯罪」というような大きなことではなく、わたしたちの心の中にあって、わたしたちと神を隔てるもの。神を悲しませるもの、と考えたらよいでしょう。人を傷つけたり、自分自身を傷つけたりするようなこと。「互いに愛し合いなさい」という神の思いを踏みにじるような思い。それが罪なのです。わたしたちは誰も、心の中で「そんなことはしてはいけない」と分かっています。そんなことをすれば、相手がかわいそうだし、自分自身の心も痛むからです。それにも拘らずついやってしまう。それが罪なのです。
 そう考えれば、幼稚園の子どもでも、心の中に罪か入り込む可能性はあるでしょう。よくないことだと自分でも分かっているのに、ついやってしまう。相手や神さまを思う心を、わがままな心が押しのけてしまう。そんなことは、子どもから大人まで、誰にも起こりうることなのです。
 生まれながらに罪深いわたしたちですが、悔い改めて祈るとき、神は必ずゆるしてくださいます。アブラハムが、ソドムの町を滅ぼさないよう神に願った話の中で、神は最後に、正しい人がたとえ十人でも「その十人のためにわたしは滅ぼさない」と言われました。これは、わたしたちの心の中にある正しい思いと置き換えて考えてもいいでしょう。たとえ99%が罪に覆われていたとしても、わたしたちの心に、ほんの1%でも、よいことだけを行いたい。神を悲しませたくないという思いが残っているなら、神はわたしたちを必ずゆるしてくださるのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる」とイエスは言いますが、わたしたちが諦めずにゆるしを願い続ける限り、神は必ずその願いを聞き入れてくださるのです。
「主の祈り」は「わたしたちの罪を赦してください」と願った後、「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦します」と続きます。これは、ある意味で当然の流れでしょう。自分がどれだけ弱く、罪深いかを自覚するとき、わたしたちは人を責めることができなくなるのです。神の前で自分の弱さ、罪深さを認めながら、他の人を厳しく責める人がいるならば、その人はまだわかっていない。心の底から反省はしていないということになるでしょう。ゆるしを願って祈る人は、他の人たちをゆるすことを心に固く誓う人でもあるのです。
 罪、罪と言ってきましたが、そのことばかり考えて暗くなれということではありません。むしろ、罪のゆるしを信じるとき、わたしたちの顔は喜びに輝くのです。「主の祈り」は、「父よ」という呼びかけから始まります。父なる神は、何があっても子であるわたしたちを見捨てない方、どんな罪でもゆるしてくださる方。そのことを信じましょう。