バイブル・エッセイ(870)末席に着く

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末席に着く

安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ14:1、7-11)

「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とイエスは言います。このたとえでは、偉そうにしている人はかえって恥をかくということが語られていますが、イエスが一番言いたいのは、むしろ神様の目から見たときどうかだと思います。神様の目から見たとき、本当に偉いのは、自分のことよりも他者のことを先に考えられる人、他者のために自分を喜んで犠牲にできる人なのです。わたしたちが互いに競い合い、踏みつけ合うなら神様は悲しまれる。わたしたちが愛し合い、支え合うなら神様は喜ばれる。このキリスト教の大原則を、イエスは身近な場面を例に使って説明してくださったのです。
 どちらが宴席で上座に着くかという場面はあまりないかもしれませんが、同じような場面は身近なところにもたくさんあります。例えば、職場や学校、教会など会議の席で、自分の意見を何とか通し、相手の上に立とうとするような争いが起こることはあるでしょう。感情的になって相手の意見を否定し、理屈が通らないと相手の人格まで攻撃して、何とか自分が上に立とうとする。それは、まさに「上座」をめぐる争いに他ならないと思います。会議だけではありません。食卓での家族の会話や、友人たちとのおしゃべりの中でも、同じようなことは起こりえます。頭では謙遜、謙遜と思いながらも、わたしたちはつい、神様のこと、周りの人たちのことよりも自分のことを先に考え、我を張ってしまいがちなのです。
 人の上に立ちたい、自分の思いを通したいというような気持ちが湧き上がって来たときには、「だが、それを神様は望んでおられるだろうか」と考えるようにしたらよいでしょう。何より大切なのは、我を通すことではなく、神のみ旨を実現すること。「神の国」の平和を実現することによって、神様を喜ばせることだからです。たとえば、誰かから厳しい言葉で批判されると、つい感情的になって強い言葉で言い返したくなります。ですが、そんなことをすれば、争いは大きくなるばかり。相手との関係はますます悪くなるし、共同体の平和を損なうことで他の人たちにも大きな迷惑をかけることになるでしょう。神様はそんなことを望んでおられません。何か重大な問題が話し合われていて、明らかに神のみ旨に反する決定が行われようとしているような場合は別ですが、単に自分のプライドの問題ならば、「ああ、この人は上席に着きたいのだな。ならば、喜んで譲ってあげよう」と席を譲ってしまうのが一番です。
 上席を喜んで譲ることで神の愛を実現する人は、神様から喜ばれると同時に、周りの人たちからも愛されます。その場では相手が勝ったかのように見えるかもしれませんが、長い目で見たとき、本当の意味で勝ったのは譲った人の方なのです。神様を喜ばせるために、進んで末席につける人、そうすることで神の愛をこの地上に実現する人になれるよう祈りましょう。