バイブル・エッセイ(872)愚かなまでの愛

f:id:hiroshisj:20190915212833j:plain

愚かなまでの愛

 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ15:1-7)

 羊が1匹でも迷子になれば、羊飼いは「99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」とイエスは言います。自分が迷子の小羊だと思えば、これはとてもありがたい話です。でも、中には「留守の間に残りの99匹がいなくなっていたらどうするんだ」と思う方もいるでしょう。損得で考えれば、1匹くらいは放って置いて、99匹を守ったほうがいいとも思えるのです。

 神様の愛は、人間のそのような思いをはるかに越えて深い。損得勘定をはるかに越えている。イエスが言いたいのは、実はそのことだと思います。神様にとって大切なのは、損得ではなく、いま苦しんでいる一匹の羊。その苦しみを思うと、いてもたってもいられなくなって探しに出かけるのが神様だということを、イエスは伝えたいのです。もし自分の子どもが外国で行方不明になれば、親は会社をやめてでもその子を探しに行でしょう。それと同じように、神様は他のすべてを捨ててわたしたちを探してくださる方。それほどまでにわたしたちを愛して下さってる方だということを、イエスはわたしたちに伝えたかったのです。

 聖書の中には、この話と同じように、人間の目から見ると「これはちょっとどうかな」と思われる話がたくさんあります。この話に続いて出て来る「放蕩息子のたとえ」もそうです。人間の目から見れば、一生懸命に働いたお兄さんの気持ちもよく分かる。怠け者の弟が帰ってきたからといって、そこまでしてやる必要があるのかと思う人もいるでしょう。ですが、神様の愛は、そのような人間の思いをはるかに越えています。自分の息子、娘であるわたしたちが、道を見失って苦しんでいると思えば、自分も苦しくて仕方がない。いつもわたしたちのことを思い、わたしたちの帰りを待ち続けている。それが、父なる神様の愛だとイエスは伝えたいのです。

 似たような話で、「ぶどう園の労働者のたとえ」というのがあります。神様は、朝から何時間も働いた労働者にも、夕方から来て1時間だけ働いた労働者にも、同じ賃金を支払う方だというのです。ちょっと聞くとおかしいのですが、ここでもイエスが言いたいのは、神様の愛の深さです。神様は、人生の最後に回心して神のブドウ畑にやって来た人も、子どもの頃から働いていた人と同じように天国に招き入れてくださる。それほどまでに、わたしたち一人ひとりを愛しておられるとイエスは伝えたいのです。

 聖書を読んでいて「これはおかしいな」と思う箇所があれば、そこにこそ、神様の愛が隠されている可能性があります。わたしたちが「おかしい」と思うのは、神様の愛が人間の理解をはるかに越えているからなのです。わたしたち一人ひとりを探し続け、待ち続ける神様の愛、愚かなまでのその愛をしっかりと心に刻み、その愛にこたえて生きられるよう祈りましょう。