バイブル・エッセイ(873)不正にまみれた富

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不正にまみれた富

「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄使いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」(ルカ16:1-9)

「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とイエスは言います。主人の財産を横領した上に、主人の債権を勝手に減らしたということですから、そんな管理人が褒められるのはおかしいとも思えます。ですが、「金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」という言葉から分かるように、これは天国のたとえ話です。主人が神様で、管理人がわたしたちと考えれば、きっと納得できるでしょう。

 管理人ということで言えば、神父はこの話に一番ぴったりするかもしれません。神様から信頼されて神父になったのだけれど、自分のことばかり考えて、せっかく頂いた恵みもすべて自分のために使ってしまう。教会のお金まで自分のために使ってしまう。そのような不正を働いていれば、やがて司教様に見つかって解任されてしまうかもしれません。そんなときに、どうしたらよいでしょう。一つの方法は、解任されても困らないように、さらにたくさんの財産をごまかし、せっせと蓄えておくという方法です。普通に考えそうなことですが、これをやると、もし見つかったときには、「なんとずる賢い奴。お前にはもう任せられない」ということになりかねません。もう一つの方法は、神様から頂いた霊的な恵みを、説教や司牧活動を通してせっせと分かち合うこと。自分に対して、あるいは神様に対して罪の債権を負っている人がいれば、気前よくゆるしてあげることでしょう。この方法であれば、最初は「あれ、あの神父、近頃どうしたのかな」と不審に思われるかもしれませんが、やがては信徒からも愛されるようになるでしょう。神様からも、これまでの罪を大目に見てもらえるかもしれません。

 これは、神父に限らず、すべての人に当てはまる話でもあります。わたしたちの命、能力、時間などは、すべて神様からお預かりしているものなのです。それをもし、すべて神様のみ旨のままに管理していると言い切ることができる人がいれば、その人は「不正でない管理人」です。でも、もしそう言い切れないとすれば、わたしたち自身も「不正な管理人」だと考えた方がいいでしょう。「神様の前に引き出され、人生の決算書を提出しなければならいなときが近づいている。このままではまずい」と思ったなら、いまからでも遅くありません。この「不正な管理人」のように、友だちを作ること。神様から預かった財産を、惜しみなく人々のために使ってしまうことだと思います。そうすれば、周りの人たちからも愛されるようになり、神様からもこれまでの罪を大目に見てもらうことができるでしょう。

 そもそも、人々に分かち合うのは、神様から預かった財産の一番正しい使い方です。イエスは、それを分かりやすいたとえで思い出させてくれたのです。わたしたちが預かった命、力、時間、すべては人々と分かち合うためのもの。本来の使命に立ち返り、たくさんの友だちと一緒に天の国に迎え入れていただくことができるように祈りましょう。