バイブル・エッセイ(881)楽園に入る

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楽園に入る

 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:39-43)

 一緒に十字架につけられた強盗の一人に向かって、イエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言いました。これは、ちょっと疑問符がつく言葉です。もし「楽園にいる」というのが復活の意味なら今日ではなく3日後、昇天の意味ならまだ大分かかることになるでしょう。イエスはここで、死後の天国ということより、むしろ今この人に救いが訪れたということを言いたいのではないでしょうか。神への恐れを取り戻し、自分の罪深さを認めてキリストに助けを願うとき、キリストともに十字架に付けられるとき、わたしたちはキリストと共に「楽園にいる」のです。

 イエスを罵る強盗をたしなめようとして、この強盗は「お前は神をも恐れないのか」と言いました。「神を恐れる」とは、怖がるということより、むしろ畏れ敬うということでしょう。神への恐れを失うとき、人間は自分自身を神として、自分の欲望の赴くままに行動するようになります。「神なんか知るか、自分さえよければいいんだ」「ばれなきゃ、何をしてもいいんだ」ということです。自分の欲望を満たすため、自分の利益のために周りの人を欺き、陥れ、傷つけたとしても、まったく意に介さず、次々と罪を重ねてゆく。神への恐れを失うとき、わたしたちは、そのようにして罪の深みに落ちるのです。

 神を恐れて生きることこそ、信仰生活の第一歩であり、わたしたちに求められていることのほとんどすべてだと言っていいでしょう。神を恐れるとは、自分が神の前では取るに足りない罪人であると知ること。そんな自分でさえ愛してくださる神に感謝し、神を悲しませるようなことはもう二度とすまいと決意すること。どんなときでも、自分の思いより、神のみ旨を優先して生きることだからです。自分の罪深さに気づき、神への恐れを取り戻すとき、わたしたちは神の子としての本来の姿に戻り、神の愛に包まれます。神への恐れを取り戻すとき、わたしたちは楽園に戻るのです。

 イエスと共にいるならば、十字架の上でさえ楽園になる。これも大きな希望だと思います。どんな苦しみの中にあったとしても、神への恐れを忘れず、神に祈っている限り、わたしたちは決して一人ではありません。イエスがわたしたちの隣にいて、わたしたちと共に苦しみを担って下さっているのです。「なぜわたしだけこんな目にあうのですか」、苦しいときにわたしたちはついそう叫んでしまいます。ですが、わたしたちだけではないのです。わたしたちが苦しむとき、わたしたちの隣にはいつもイエスがいて、わたしたちと一緒に苦しんでくださっているのです。

 イエスがいつくしみ深くわたしたちを見つめるとき、そのまなざしの中で、わたしたちの苦しみは喜びに変わってゆきます。苦しみが、イエスとわたしたちを結ぶ絆となるのです。イエスが共にいてくださるとき、十字架の上でさえ楽園になります。神を恐れ敬い、神のみ旨のままに、イエスと共に生きられるよう祈りましょう。