バイブル・エッセイ(883)心の扉を開く

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心の扉を開く

 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。」(マタイ3:1-6)

「悔い改めよ」「主の道筋を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という洗礼者ヨハネの声が、荒れ野に響いています。「主の道筋」とは、イエスがわたしたちの心に入ってくるための道。その道は、悔い改めによってのみ整えることができるのです。

 わたしたちの心は、思い上がりや劣等感など、さまざまなでこぼこがあって歩きにくい道です。ですが、イエスはそのようなでこぼこを乗り越えることができます。イエスが一番困るのは、心の扉が完全に閉ざされているとき。わたしたちが、「こんなわたしが、救われるはずがない」と思い込み、絶望の闇の中に閉じこもってしまっているときでしょう。諦めてしまってイエスの顔を見ようともしない、その声に耳を傾けようともしないということでは、イエスでさえどうにもすることはできません。「今年こそ変われるかもしれない」「いまこそ、わたしの人生の大きな節目の時かもしれない」と心の底から信じ、イエスに向かって心を開くこと。それこそ、主の道を整えるにあたって、まずすべきことでしょう。

 今年、イエス様はわたしたちにとても分かりやすい姿でやって来られました。この地上における「キリストの代理者」であるフランシスコ教皇を通して、わたしたちはイエスの言葉に触れたのです。わたしたちは、教皇が運んでくださった喜びのメッセージ、キリストの愛をしっかり受け止められたでしょうか。「ビバ、パパ」と叫んで大騒ぎはするけれど、言葉はまったく聞いていない。記念グッズは集めたけれど、教皇の言葉は何も心に残っていない。それでは、何の意味もありません。教皇は、わたしたちの心にキリストの言葉を届けるために、愛のメッセージを届けるためにこそ来たのです。大切なのは、心を開いてそのメッセージをしっかり受け止めることです。

 中には、「教皇の言葉は素晴らしいけれど、難しすぎてよくわからない。わたしにはとてもではないが実行できない」などと考えて、はじめから教皇の言葉に耳を傾けない人もいるかもしれません。それは、教皇が連れてきた下さったイエスを、門前払いにするのと同じです。たとえば、教皇は東京ドームのミサで次のようにおっしゃいました。

「障がいのある人や体力の衰えた人は、愛するに値しないのですか。外国人や、間違いを犯した人、病気の人、刑務所にいる人、その人たちは愛するに値しないのですか。」

 これはまさに、預言者の言葉だと思います。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたのである」とイエスはおっしゃいました。そのような人たちの中にこそイエスがいる。そのような人たちの中にいて、わたしたちが心を開くのを待っている。心を開くとき、わたしたちの心にイエス・キリストが訪れる。教皇はそのようにおっしゃっているのだと思います。

 今年の待降節は、教皇様が運んでこられたキリストの言葉を受け止めることによって「主の道筋を整え」、まっすぐにしてゆきたいと思います。「また今年もか」と思って諦めることがないように、変わりたいという思い、変われるかもしれないという希望を持ち続けられるように、共に祈りましょう。