バイブル・エッセイ(889)濃密な時間

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濃密な時間

(そのとき、羊飼いたちは)急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、(彼らは、)この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。(ルカ2:16-20)

 聞いていた他の人たちは、羊飼いの話を不思議がっただけでしたが、「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とルカは伝えています。マリアは、出来事を何度も思い返し、その意味を神に尋ねることで、心に深く刻んでいったのでしょう。マリアは、自分の身に起こったことから神のみ旨を知り、学びながら成長していったのです。

 今日は1年の始まりですが、このような年の節目を迎えるたびごとに、「また1年があっという間に過ぎてしまった」という感慨を抱きます。「歳をとるごとに、1年が過ぎるのが速くなる」という言葉をよく聞きますが、確かにそんな感じもします。「5歳の子どもにとって1年は人生の5分の1だが、50歳の人には50分の1だから、短く感じるのは当然」という説もあるそうですが、子どもにとってはすべてが新鮮なので、時間を長く感じる。大人になると、何でも同じようなことばかりなので、時間を短く感じるということは確かにありそうです。

 わたしにとってこれまで一番長かった時間は、修道院に入ってすぐの頃に行われる修練の2年間でした。この2年間、わたしたちは外部との接触をほとんど絶たれ、修道院にこもって祈りと労働の日々を送ります。一人で自由に外出することもできないし、お小遣いもありません。わたしのように外部と接触することが大好きな人間にとっては、本当に苦しい時間でした。毎日カレンダーで日にちに×を付け、「もう何日たった、あと何日で終わる」というようなことを考えていました。

 時間が長く感じる一つの要因は、その生活にうまく溶け込めていないこと、その生活を楽しめていないことでしょう。毎日を楽しんでいれば、「何日過ぎた」などと考える時間もなく、あっという間に月日が流れてゆくはずです。楽しんでいるときに時間は早く流れ、つまらないときに時間はゆっくり流れるということは、確かに言えると思います。これは、最初に紹介した考え方とは逆のことです。この考えで言えば、子ども時代はつまらなく、歳をとればとるほど楽しいということになりますが、どうもそれは違うようにも思えます。時間の流れというのはまったく不思議です。

 一つはっきり言えるのは、修練の期間には時間が濃密に流れていたということです。日々起こる出来事と格闘し、深く関わっていた。祈りの中で必死に神のみ旨を探しながら、一日一日を生きていた。それは間違いありません。短い期間で大きな変化に適応し、成長した。だからこそ、時間が長く感じたとも思われます。そう考えれば、時間の流れに年齢は関係ありません。困難や苦しみの中で懸命に成長しようとしているときには、時間はゆっくりと流れ、長く感じられるのです。何歳になっても、困難にチャレンジし続け、成長し続ける人にとって、1年は十分に長いのです。

 聖母にとっても、イエスと共に歩む日々は、ときに困難と苦しみに満ちたものでした。「一日一日の出来事を思い巡らし、心に納めてゆく」日々は、ただ楽しくてあっという間に流れ去るもではなく、退屈だから長く感じて仕方がないものでもなく、一日一日がしっかり心に刻まれてゆく濃密な時間だったのではないかと思います。聖母にならい、一日一日を心に刻んで、濃密な日々を過ごすことができるように祈りましょう。