バイブル・エッセイ(890)起きよ、光を放て

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起きよ、光を放て

起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから娘たちは抱かれて、進んで来る。そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き、おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ国々の富はあなたのもとに集まる。らくだの大群ミディアンとエファの若いらくだがあなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。(イザヤ60:1-6)

「起きよ、光を放て」と、神は預言者イザヤを通して人々に語りかけました。暗闇が地を覆う中で、イスラエルの上に主の栄光が輝き出た。その光を受け、この地上を照らせということでしょう。主である神の栄光は、神を信じて生きる私たちを通してこの地上に輝くのです。

 そのように、主の栄光をこの地上に輝かせた人たちが、教会の歴史の中に無数にいます。一番よい例は、アウシュビッツの殉教者、コルベ神父でしょう。コルベ神父は、処刑されようとしている仲間の身代わりになり、餓死室に入れられました。それだけでなく、餓死室に入ってからも仲間たちを励まし、最後のときまで神に祈りを捧げ続けたということです。飢餓の中で死んでゆくことが確実な状況にあっても、コルベ神父は神にすべてを委ね、最後まで希望を捨てることがありませんでした。その姿は、同じ部屋に入れられた仲間たちを励まし、この地上に神の栄光を輝かせました。その光は語り継がれ、今日に至るまで多くの人たちの心を照らし、希望を与えています。

 有名な聖人たちだけではありません。わたしの友人の一人は、20代で癌の診断を受け、苦しい闘病生活を送ることになりました。再発し、転移が発見され、状況は次第に悪くなってゆきましたが、彼女は最後まで希望を失うことがありませんでした。げっそり痩せて髪も抜け、快復の見込みも立たず、自分が一番苦しい状況のはずなのに、同じ病室の仲間を気遣い、優しい笑顔を浮かべ続けたのです。「すべては神さまの手の中にあります。心配はいりません」というのが、彼女の口癖でした。そんな彼女の姿は、同じ病室にいた人たちの心を励ましました。神様に希望を置いて生きる彼女の姿を通して、この地上に神の栄光が輝いたのです。彼女は天に召されましたが、あの頃の彼女の姿はわたしたちの心に刻まれ、今もわたしたちの心を照らしています。

 今日は、「主の御公現」の祭日。東の国の王たちが、遠くに輝く星の光に導かれて、幼子イエスを訪問したという記念日です。異邦人であるこの王たちを引き寄せたのと同じ光、主の栄光の輝きを地上に現すことは、わたしたちに与えられた大切な使命です。コルベ神父がそうであったように、若くして癌で亡くなった友人がそうであったように、どんな困難に直面しても諦めず、神に希望を置いて生きる人の姿は、周りにいる人たちの心を照らし、希望を与えます。その光を見た人は、「なぜあの人は、こんなに穏やかな笑顔を浮かべられるのだろう」と問ううちに、その光の源がイエス・キリストであることに気づくのです。

 自分で自分を輝かせる必要はないし、自分で作った光では人々の心を惹きつけることができません。地上の栄光によって自分で自分を輝かせたとしても、それは人々に希望を与える光にはならないのです。苦しい状況にありながらも、神の手にすべてを委ねて生きる人を通してだけ、天上の光、主の栄光がこの地上に輝きます。コルベ神父のように、先ほど紹介した友人のように、神の手にすべてを委ねて生きることによって、この地上に主の栄光を輝かすことができますように。