バイブル・エッセイ(896)太陽のように輝く

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太陽のように輝く

 イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。(マタイ17:1-9)

 弟子たちの前でイエスの姿が変わり、「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」と福音書は記しています。「太陽のように輝く」とは、いったいどんな顔だったのでしょう。きっと喜びと力に満ちあふれた笑顔、周りの人たちの心を励まし、希望で満たすような笑顔を浮かべていたのではないかとわたしは思います。高い山の上で祈りを捧げ、神の手にすべてを委ねたとき、父なる神の愛がイエスの心を満たしました。そのとき、イエスの心は喜びと力で満たされ、イエスの顔は太陽のように輝いたのです。

 マザー・テレサがよく、「あなたたちは、貧しい人たちのために太陽の光となりなさい」と言っていたことを思い出します。しょぼくれた顔やつまらなそうな顔で、神の愛を伝えることはできない。神の愛を伝えたいなら、いつも輝くような笑顔を浮かべてスラム街の人々を訪ねなさいということです。

 では、どうしたらそんな笑顔を浮かべられるのでしょう。「太陽の光」というマザーの言い方にヒントがあると思います。わたしたちの笑顔は、太陽の光であって、太陽そのものではないのです。太陽は、わたしたち一人ひとりのうちにおられるイエス・キリストに他なりません。イエス・キリストは、どんなときでもわたしたちのうちにいて、まばゆい命の光を燃え上がらせ、太陽のように輝いておられます。イエス・キリストこそ、わたしたちのうちに燃え上がり、わたしたちを生かす命の炎であり、神が与えてくださった不滅の命、永遠に輝き続ける太陽なのです。

 わたしたちの使命は、その光をさえぎらないこと。喜びと力に満たされ、全身から太陽の光を放つことに尽きると言っていいでしょう。自分の身の周りで起こることに不安や恐れを抱くとき、わたしたちの顔は曇ります。神の愛を信じられなくなるとき、わたしたちの顔は曇り、太陽の光を覆い隠してしまうのです。いらだちや怒り、憎しみによって心がかき乱されているとき、わたしたちの顔は暗くなります。ネガティブな感情に引きずられ、呑み込まれてしまうとき、わたしたちの顔は暗くなり、太陽の光をさえぎってしまうのです。

 人びとに太陽の光を届けるために何より必要なのは、神への信頼であり、神にすべてを委ねる心です。神を信じてすべてを委ねるとき、わたしたちの顔の曇りは消えます。雲の間から太陽の光が射すように、喜びと力に満ちた笑顔があふれだすのです。神の愛に心を開くとき、いらだちや怒り、憎しみの闇は消え去り、わたしたちの全身から、すべてを優しく包み込む愛の光が輝きだすのです。

 わたしたち一人ひとりの中に、イエス・キリストという太陽が燃えている。そのことを忘れないようにしたいと思います。どんな試練が訪れたとしても、イエス・キリストはわたしたち一人ひとりの中で太陽のように輝き続けているのです。その光をさえぎってしまうことがないように、試練の中にいるときにこそ、太陽のように輝く笑顔で互いを照らし合うことができるように祈りましょう。

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