バイブル・エッセイ(906)無力なときにこそ

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無力なときにこそ

 この日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。(ルカ24:13-35)

「行いにも言葉にも力のある預言者」で、「あの方こそイスラエルを解放してくださる」と期待していたイエスが、十字架に付けられ、殺されてしまった。そう嘆く弟子たちに、イエスは「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と語りかけます。メシアとは、力によって世界を変える方ではなく、自分の命を差し出すほどの愛によって世界を救う方。地上の栄光をはぎ取られたみじめな姿で、天の栄光に挙げられる方ではなかったか。イエスは、弟子たちにそう語りかけたのです。

 なぜこんなことが起こったのかと困惑し、暗い顔で話し合っている弟子たちの姿は、今のわたしたちの姿に重なる部分があるかもしれません。毎週たくさんの人が集まり、ミサはもちろん、勉強会やコンサート、ボランティア活動などが盛んに行われていた教会、社会に対して力強く働きかけていた教会は、今、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため、ほとんどの地域で力を失ってしまいました。ミサは非公開となり、勉強会やボランティア活動は中止され、すっかり人気が絶えてしまったのです。わたし自身もそうなりがちなのですが、力を失った教会の姿に不安を感じ、つい暗い顔になってしまう方は多いでしょう。電話やラインで仲間と話していても、「これからどうなるんだろう。困ったな」という話になってしまいがちなのです。

 イエスは、そんなわたしたちに向かって、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と語りかけています。すべてをはぎ取られた無力さの中で、自分のすべてを神のため、人びとのために差し出してゆく。弱くて何もできない自分を、ただ愛のゆえに差し出し出す。そのときこそ、まさにキリストが栄光に移されたときでした。キリストが栄光に移されたのは、はなばなしい宣教活動や、ローマ帝国を動かすような力ある業によってではなかったのです。キリストが栄光に移されたのは、力によってではなく、自分の命さえも差し出す、まったく無力な愛によってだったのです。

 力を奪い取られた今こそ、教会は復活の栄光に近づいているのかもしれません。確かに今は、集まってミサをしたり、勉強会やボランティア活動をしたりすることができません。ですが、どんな場所にいたとしても愛することはできます。家族や友人のため、職場や地域の人たちのために、この弱くて何もできない自分を差し出してゆく。神から与えられた愛するという使命を貫いてゆく。そのことによって、わたしたちはキリストの栄光、復活の栄光へと移されてゆくのです。「あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる」とダビデが語った道は、無力さの中で、自分のすべてを差し出してゆく愛の道に他なりません。

 目に見えなかったとしても、わたしたちの間に教会は確かにあります。信じて神にすべてを委ね、互いに祈りで支えあうわたしたちの間に、教会は確かに存在しているのです。大きな試練に直面し、目に見える教会が力を失っている今こそ、目に見えないその教会が最も力を持つときだと言ってもいいでしょう。この教会の中心にイエスがおられます。イエスと共に、苦しみを通って栄光に入ることができるよう祈りましょう。

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