バイブル・エッセイ(909)美しさの中におられるイエス

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美しさの中におられるイエス

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(ヨハネ14:15-21)

「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」とイエスは言います。イエスがやって来られるときには、イエスが父なる神の愛のうちにおられるように、わたしたちもイエスの愛に包まれる。同時に、イエスもわたしたちの愛に包まれるということでしょう。イエスを愛するとき、わたしたちの目は開かれ、自分がイエスの愛の中に生きていること。わたしたちの間にイエスがおられることに気づくのです。

 ナチス・ドイツの強制収容所から生還した精神科医、ビクトル・フランクルが、強制収容所での自身の体験を綴った『夜と霧』という本の中に、一つの印象的な場面があります。厳しい労働の中で疲れ果てて迎えたある日の夕方、仲間の一人が興奮して部屋に飛び込んできて、みんなに外に出るように呼びかけたというのです。それは、みんなに夕焼けを見せるためでした。その仲間は、夕焼けの美しさをみんなと分かち合いたくて仕方がなかったのです。夕焼けを見たうちの一人は、「世界って、どうしてこう奇麗なんだろう」とつぶやいたとフランクルは記しています。

 強制収容所ほどでなかったとしても、何か自分にとって本当に厳しい状況の中に置かれているとき、ふと世界の美しさに気づき、「大丈夫だ。世界はこんなにも美しい」と思って生きる力を与えられた。そんな体験をしたことがある方は、きっと多いのではないかと思います。わたし自身も、そんな体験が何度かあります。そのたびに、わたしは学生の頃に読んだ『夜と霧』のこの一節を思い出し、「きっとフランクルたちが体験したのは、こんなことだったんだろうな」と思ったものです。どんな苦しい状況にあっても、世界の美しさに感動するとき、わたしたちの心に生きる力が湧き上がって来るのです。

 世界の美しさは、神さまからの愛のメッセージだとわたしは確信しています。神さまは息を呑むほど美しい世界を通して「頑張れ、わたしはこんなにもあなたを愛している」とわたしたちに呼びかけているのです。その呼びかけに気づくとき、わたしたちの心に生きる力が湧き上がってきます。「わたしたちは、神の愛の中に生きている。何も心配する必要はない」と思えるようになるのです。

 美しさは、自然の中だけにあるのではありません。フランクルは、強制収容所の中にあっても、仲間に優しい言葉をかけたり、自分の最後のパンの一片を病気の仲間に与えたりする人がいたと記しています。そのような人間の気高さの中にも、わたしたちは美しさを見ることができます。その美しさもまた、神からのメッセージなのです。その美しさを通して、神さまは、「頑張れ、何があってもわたしはあなたたちを見捨てない」とわたしたちに呼びかけておられるのです。

 世界の中に、また人間の心に宿る神々しいまでの美しさの中に、イエス・キリストがおられます。その美しさは愛であり、愛の中にはイエス・キリストがおられるのです。コロナ禍の試練の中にあっても、世界の美しさ、人間の心の美しさの中にイエスを見つけだし、この試練を乗り越えてゆくことができるように、また、わたしたち自身も美しい愛の行いによってキリストのメッセージをこの世界に伝えてゆくことができるように祈りましょう。

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