バイブル・エッセイ(911)愛を伝える使命

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愛を伝える使命

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20:19-23)

 「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」、2000年前に弟子たちに語られたイエスのこの言葉は、いまわたしたちに向かって語られている言葉でもあります。聖霊降臨を祝う今日、わたしたちはイエスから大いなる使命を与えられ、世界の隅々にまで派遣されてゆくのです。

 イエスから与えられた使命とは、いったい何でしょう。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」というイエスの言葉に、わたしたちの使命がはっきりと示されています。わたしたちの使命、それはどれほど弱く、罪深いわたしたちであっても、受け入れ、ゆるしてくださる神さまの愛を、すべての人々に伝えることなのです。「自分なんかがゆるされるはずがない。生きている資格がない」と思い込み、自分を責めている人たち。絶望の闇の中で苦しんでいる人たちのところに行って、「そんなことはない。神さまは、弱くて不完全なわたしたちを、あるがままに受け入れ、ゆるしてくださるかた。わたしのような人間でさえゆるされたのだから、あなたがゆるされないはずがない」と伝える。喜びと力に満ちた笑顔で、その人たちの手を握り、その人たちの顔を見つめる。それが、わたしたちに与えられた使命なのです。

 このコロナ禍の中にあっても、その使命は免除されたわけではありません。むしろ、こんな時だからこそ、わたしたちは世界の果てまで神さまの愛を届ける必要があるのです。もちろん、自分が感染し、ウイルスを他の人に広めるようなことは絶対にあってはなりません。直接に会って伝えることは、難しい場合もあるでしょう。ですが、福音を伝える方法は、他にいくらでもあります。たとえば電話。しばらく教会を離れている人、病気や高齢で教会に来られない人などに電話して、近況を伝え合う。それだけでも、わたしたちは相手に神さまの愛、神さまのゆるしを伝えることができます。手紙を書くのもいいでしょうし、きれいなカードを添えるのもいいでしょう。インターネットを使った宣教の試みも、各地の教会で行われています。コロナ禍の中にあっても、わたしたちにできることはいくらでもあります。不安や恐れにとらわれ、閉じこもっておろおろしている時間などないと言っていいくらいです。

 何より大切なことは、苦しみの中にある人たちのために祈ることです。わたしたちが誰かのために捧げる祈り、それはわたしたちがその人のために捧げる愛に他なりません。わたしたちが捧げる愛は、神さまの愛と一つに結ばれて世界を包み込み、世界を変えてゆくでしょう。わたしたちの捧げる祈り、捧げる愛には、世界を変える力があるのです。祈りによって世界を愛で満たし、その愛を目に見える形で人々に伝えてゆく。それがわたしたちの使命なのです。

 この宇部・小野田の地でも、できることはいくらでもあるはずです。コロナ禍だから宣教お休みということではなく、コロナ禍だからこそより一層熱心に宣教の使命を果たすことができるよう、心を合わせて共に祈りましょう。

 

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