バイブル・エッセイ(915)誰よりもイエスを

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誰よりもイエスを

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイ10:37-42)

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」とイエスは言います。イエスを愛するよりも、家族を愛するなら、その人はイエスの弟子としてふさわしくないというのです。そればかりか、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得る」というのですから、イエスを愛するより自分自身を愛する者は、イエスの弟子としてふさわしくないということでしょう。家族よりも、自分自身よりもイエスを愛する者だけが、イエスの弟子にふさわしいということです。

「おや、では互いに愛し合うなということか。言ってることが矛盾してる」と思う人もいるかもしれませんが、そうではありません。他の誰よりもイエスを愛し、イエスのために自分のすべてを差し出した人だけが、真の意味で家族を、自分を愛せるということです。自分の子どもを愛することを例にして考えてみましょう。「わたしは誰よりもお前を愛している。イエス様よりもお前の方が大事だ」という愛は、果して本当の愛でしょうか。そのような愛は、他人なんかどうでもいい。うちの子どもさえよければいいんだというような、どこか歪んだ愛になってゆくような気がします。それは、愛というよりもむしろ執着に近いでしょう。そんな愛し方をされたら、子どもは窮屈に感じるのではないでしょうか。賢明な子どもであれば、「ぼくよりも、もっと大切なものがあるはずだよ」と親に言いたくなるに違いありません。

 むしろ、自分の子どもさえイエスに差し出し、「この子は、イエスさまからお預かりした宝物」という気持ちで育てるとき、わたしたちは子どもを本当の意味で愛せるようになります。子どもへの執着を手放し、「イエスさまは、この子のためにご計画をお持ちだ。この子がイエスさまから与えられた使命を果たすことができるよう、この子をしっかり支えよう」と思う。そのような親のもとで、子どもは神の子として、自分らしくのびのびと育ってゆくことができます。それこそが、親の愛のあるべき姿でしょう。子どもを愛するとは、子どもを自分の思った通りに育てることではなく、神のみ旨のままに育てることなのです。配偶者や他の家族についても、まったく同じことが当てはまるでしょう。神の前に差し出し、神からお預かりしたものとして愛するとき、わたしたちは本当の意味で家族を愛することができるのです。

 自分自身についても同じことが言えます。「イエス様より自分が大事」と考え、「自分さえよければなにをしてもいい」というのでは、自分を愛していることになりません。むしろ、そのようなわがまま勝手な行動をとれば、わたしたちは自分で自分を駄目にしてしまうでしょう。イエスに自分のすべてを差し出し、神のみ旨のままに生きること。自分を捨て「自分の十字架を担ってイエスに従う」ことこそが、本当の意味で自分を大事にするということであり、自分を愛するということなのです。イエスを誰よりも愛することによって、家族や隣人、そして自分自身を本当の意味で愛することができますように。

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