バイブル・エッセイ(917)心に深く根を下ろす

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心に深く根を下ろす

その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13:1-9)

 鳥に食べられたり、陽射しに焼かれたり、茨に押しつぶされたりした種もあったけれど、「ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった」とイエスは言います。よい土地に落ちた種は、その土地に深く根を下ろして水や養分を吸い上げ、大きく育ってたくさんの実を結ぶのです。

 蒔かれる種が、神さまの愛、イエス・キリストの言葉だとすれば、それが土地に深く根を張るとはどういうことでしょう。それは、神さまの愛を心の一番奥深くでしっかり受け止め、静かな喜びに満たされるということであり、その体験に基づいて、「イエスの言葉こそ、ずっとわたしが求めていたものだ。間違いない」と確信することだと思います。体験に裏打ちされた揺るがぬ確信こそが、何があっても揺るがぬ土台、種の成長を支える根になるのです。

 自分の心と対話し、根を深く下ろしてゆくプロセスの中で、石にぶつかったり、茨に覆われたりするような体験が起こることがあります。石とは、たとえば心の頑なさでしょう。ゆるしを説くイエスの教えを聞いても、「相手が悪いのに、なぜゆるさなければならないんだ」という頑なな思いにぶつかってそれ以上進まないというようなことが起こりがちなのです。そんなときは、石を砕く必要があります。「果して自分に落ち度はなかったのだろうか。相手には相手の事情があるのでは」と思い巡らすうちに、反省や相手への共感が心に生まれたなら、心の中の石は砕けてゆくでしょう。心の石を砕き、「ああ、わたしは頑なだった。ゆるすことでこんなに気持ちが楽になるなんて」という体験を積み重ねる中で、根は心の奥深くへと伸びてゆきます。

 茨とは、たとえば、わたしたちの心にはびこる物欲や虚栄心だと思います。「あれも欲しい、これも欲しい」とか、「人からよく見られたい。人の上に立ちたい」という思いは、一度、心の中に芽を出すと、どんどん成長して大きくなってゆき、み言葉の種を圧迫し始めます。そういった雑念が心の中に根を伸ばし、心に蓄えられた力を吸い取り始めると、み言葉の種の方に養分がいかなくなってしまうのです。そんなときは、茨を抜く必要があります。「自分にとって一番欲しいものは何だろうか。本当の幸せはどこにあるのだろう」と思い巡らすうちに、欲望を満たしても、それだけでは決して幸せになれないことに気づいたなら、そのとき心の中の茨は取り去られるでしょう。茨を取り去り、本当の幸せをかみしめる中で、根は心の奥深くに伸びてゆきます。

 渡辺和子さんが『置かれた場所で咲きなさい』の中で、「どうしても咲けないときもあります。そんなときは、...根を下へ下へと降ろして、根を張るのです」とおっしゃっています。外に出ることが難しいコロナ禍の時期は、根を張るために絶好の機会と言えるかもしれません。いま、根を深く下ろしておけば、収穫の季節が来たときには、何倍、何十倍もの実を結ぶことができるでしょう。コロナ禍の時期にしか咲かせられない花もあり、それを咲かせることも大切なのですが、同時に根を伸ばすことも大切にしたいと思います。心の大地に深く根を下ろし、実りの季節にたくさんの実を結ぶことができるよう、共にお祈りしましょう。

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