バイブル・エッセイ(932)神を愛し、自分を愛する

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神を愛し、人を愛する

ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:34-40)

 

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」、この二つの掟こそ、律法の中で最も大切な教えだとイエスは言います。何よりも大切なのは、律法に基づく行いではなく、そこにこめられた愛だということです。この掟が最も大切であることは間違いありませんが、同時に、律法の中で最も難しい掟だということもまた事実でしょう。

 神を愛するといいますが、突然に不治の病を告げられた、配偶者を事故で亡くした、コロナ禍のため経営危機に陥ったなど、人生の大きな試練に直面している人にとって、そのような試練を与える神を愛することはとても難しいように思います。「なぜわたしだけがこんな目にあわなければならないのか」「神さまがいるなら、なぜこんなことが起こるのか」と思うほど苦しんでいる人に、神を愛することなどできるのでしょうか。

 「自分を愛するように隣人を愛せ」と言いますが、そもそも、自分を愛することだってとても難しいことです。「なぜわたしはこんなに駄目な人間なのか」「なぜこんなこともできないのか」など、自分に対して不満を抱きながら生きている人は、決して少なくないでしょう。そんな欠点だらけの弱い自分を、どうしたら愛することができるのでしょう。そのような自分をこの世に送り出した神様を、どうしたら愛することができるのでしょう。

 理不尽な試練に直面したり、自分に愛想がつきそうになったりしとき、わたしは、神様は試練を与えるだけでなく、それ以前に受け取っていたすべての恵みを与えてくださった方でもあること。そもそも、わたしたちに命を与えてくださった方だということを思い出すようにしています。何かを奪われたとき、わたしたちは神様を怨んでしまいがちですが、そもそもそれを与えてくださったのは神様なのです。「神様、なぜこんなに豊かな恵みをわたしに与えてくださるのですか」と言って感謝していなかった人が、失った後でだけ「なぜ取り去られるのですか」と不満を言うのは不公平でしょう。そのことに気づけば、わたしたちはきっと、自分の人生と和解し、神様と和解することができるはずです。

 試練を厳しいと感じるのは、それまで自分の人生が豊かに恵まれていたからだと気づき、神に感謝する。こんなわたしでも、生まれてこないよりは生まれてこられた方がずっとよかったと思い、神に感謝する。そのとき、わたしたちの心に神様への愛、自分自身への愛が生まれます。神様と和解し、自分の心に「神の国」を実現できた人は、苦しんでいる人を見て放って置けないし、悲しんでいる人を見て慰めずにはいられなくなるでしょう。神様を愛し、自分を愛するとき、わたしたちは初めて自分から進んで律法を守り、互いに愛し合うことによって「神の国」をこの地上に実現できるのです。まずは、神様を愛し、自分を愛することができるよう祈りましょう。